大磯今昔

2018年11月14日 (水)

【大磯今昔・新島襄8】(Vol.142)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【18.03.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回は、同志社大学設立から大磯で亡くなるまでについてお話します。

新島襄は「同志社大学設立を要する主意」をまとめ上げて明治16年(1883)、襄40歳の時から本格的にスタートさせました。
課題は設立資金調達です。
その為に、伝道活動と共に資金集めの為に全国各地を訪れ、彼は校長職にありながら殆ど学校にはおらず、伝道、募金活動の旅に明け暮れた生涯でした。
彼は、青年時代から“病魔の囚人”と言われ病気に苦しんだようですが、自分の健康を犠牲にしてまで伝道・育成事業に携わる壮絶な人生でした。それを支えたのは信仰に裏打ちされた強靭な精神力でした。

新島は、アメリカ時代から多くの人脈を作り上げています。
森有礼の紹介で、岩倉使節団、木戸孝允・伊藤博文・との親交を深め更に井上馨・大隈重信特に大隈邸で行われたパーティーでは、原六郎・岩崎弥之助・久弥・益田孝・澁澤栄一・大倉喜八郎等、蒼々たるメンバーが力沿いをしてくれました。
更なる募金活動に力を入れ勝海舟・陸奥宗光とも、徳富蘇峰の紹介で時の大蔵大臣松方正義へ、協力依頼をして頂きました。

そんな折、明治22年(1889)11月に前橋での募金活動のさ中、新島は倒れました。
そちらで病気治療をしていましたが、12月27日に蘇峰の勧めから大磯の旅館・百足屋に転移し身を横たえましたが、静養もそこそこに全国の伝道者に手紙を書き続けました。(蘇峰の考えの中に、大磯には今でいう医療付きのリゾートホテルのはしりというべきでしょうか、祷龍館という旅館が有り、当時澁澤栄一が宿泊している情報が有り、遺言ともいうべき最後の手紙は澁澤栄一にあてて書かれたものと言われています)

明治23年1月19日病状急変の電報が打たれ21日、八重・蘇峰・小崎弘道を枕頭に呼んで新島は遺言を述べ、蘇峰が筆記しました。1月23日午後2時20分、亡くなられました。
47歳でした。死因は「急性腹膜炎症」。

翌24日午前8時の汽車で、新島の棺は京都に向かいました。
翌25日、午前1時20分京都七条駅へ帰着し、自宅へ戻りました。
そして当初は、南禅寺(天授庵)に埋葬を希望していました、何故かというと横井小楠と長男・時雄の墓が有り、時雄は同志社を出て山本覚馬の娘と結婚、その縁で新島襄の父のお墓が有りました。現在は同志社の墓地に移っています。

11148vol142_2でも南禅寺からは、耶蘇(当時はそう呼ばれていました)式の葬儀や、お墓を建てないならばと言われましたが、それは無理な話ですので急遽若王子の共同墓地の埋葬になりました。
棺は代わるがわる教え子によって担がれ山頂の墓地に向かいました。

小崎弘道の「殉教者の死」と題する追悼説教は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一にしてあらん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」でした。

あこも3~4年前ですが、若王子の墓地にお参りに行きましたが、墓地入り口に杖が何本か置かれていてその意味が最初解りませんでしたが、何分か上ってみてあ~杖を借りてくればよかったと思うような獣道に近かったのを憶えています。最近は如何でしょうか?

写真はその登り口と、お墓です。ご冥福をお祈りします。
何故かと思うお話が一つあります。「大磯の今昔」鈴木昇著の(四)に妻八重は明治23年6月に神明前九〇六番地外の土地を購入したと有ります。
襄が亡くなった後に何故購入したのでしょうか?
機会が有りましたら調べてご報告します。

2018年11月13日 (火)

【大磯今昔・新島襄7】(Vol.141)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.03.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
新島襄も7回目を迎えました。前回で八重との結婚のお話をしましたので、今回は八重について少し語ります。

11137vol1411
2013年に大河ドラマ「八重の桜」の放映があってから奥様の八重が有名になりました。 
では、八重はどんな人?大磯との関わりは、どうだったのでしょう?

11137vol1412大磯との関わりは、残念なことに襄が危篤となって、京都から駆けつけ静養している百足屋旅館に看病の為に到着後、3日で亡くなられてしまいました。
八重自身は、もっと前から看病に大磯に来たかったのですが、襄から自分の事よりも、自分の母の面倒を見てほしいと頼まれて、中々大磯に来ることが出来ませんでした。
やっとの知らせが、「襄危篤」でした。

大磯での滞在は、この3~4日でしたが多くの心を残されました。
では、八重はどんな人でしょう。
世間には、「男勝り」「豪放磊落」「異端児」「正体不明の女子」「元祖ハンサム・ウーマン」凄い言葉が続きますが、彼女を称賛した言葉です。

八重は、弘化2年(1845)11月3日(12月1日説も有り)、山本権八・佐久の三女として会津藩砲術指南の家に生まれ、兄・覚馬は後に、結婚する川崎尚之助、新島襄との関係に大きく影響を与えます。

幼い頃から男勝りの気性で、13歳の頃には四斗俵(約60㎏)を肩の上まで4回は上げ下げできたといいます。
慶應4・明治元(1868)年1月に始まった戊辰戦争で朝敵となった会津藩は、同年8月ついに会津鶴ヶ城城下まで官軍に攻め込まれ、1ヶ月に及ぶ籠城戦の後に敗れてしまいます。この時に、八重は断髪・男装し、新式のスペンサー銃と刀をとって果敢に戦ったことから、「会津のジャンヌ・ダルク」と呼ばれました。

落城の際に、白壁に涙ながらに刻んだ和歌は有名です。
「明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」
戊辰戦争から3年後、京に上洛し襄と出会い「同志社のハンサム・ウーマン」として過ごします。
今回はここまでです。

写真は八重の写真と、この後、襄・八重と深い関わりを持ちます、「徳富蘇峰」の記念館を先週二宮に訪ねてきた時の写真です。

2018年11月10日 (土)

【大磯今昔・新島襄6】(Vol.140)

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【18.03.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
もう少し、新島襄を続けます。(敬称略)

今回の新島襄は海外にいらした方とか、お住まいの方からのメッセージを、頂きましてありがとうございます、訂正等も含めまして、身の引き締まる思いです。
そろそろ襄に日本に帰国して頂きましょう。

明治8年(1875)11月横浜に帰着します。
前年にアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立をする旨を訴え、5,000ドルの寄付の規約を得ます。
帰国後、すぐに故郷の上州安中に向かい、最初のキリスト教の講演をします。
その集会に参加した30人が洗礼を受け後に安中教会(現・日本基督教団安中教会)を設立します。

同志社設立(同志社英学校)へと進んでいく中、京都府知事・植村正直、府顧問・山本覚馬(後に妻になる八重の兄)の賛同を得て旧薩摩藩屋敷5,800坪を譲り受け官許同志社英学校を開校し、その翌年明治9年1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚します。

もう何年になりますか、大河ドラマ「八重の桜」が放映され、襄と八重の出会いは有名ですが、ご覧にならなかった方に、お話しますが襄はアメリカでの暮らしから理想とする女性は「男性と対等に生きられる自立した女性」との結婚を望んでいました。

11106vol140山本覚馬の家を訪ねた時、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八重の姿を見て(夏でしたので、井戸の上は涼しいから)常識にこだわらない姿勢が気に入って結婚を決めたと言われています。
こんな行動をとる八重には、辛い悲しい戊辰戦争での事が有りました。
死ぬこと以外は、一切の頓着を考えないようになったようです、戦の決着がつくまで、お城の城内には亡くなった人たちが放置され、そんな中で何日も男と同じ戦いに参戦してきた八重の心はとても辛かったと思います。

その時男性には死の命令が下されましたが、八重は女という理由から死ぬことを許されませんでした。
その事がきっかけで、死以外は心の赴くままに行動しようと決めたと、何かの本で語っていました。

大磯町でも、「新島八重」の講演が有った時にも、語られていてあこちゃんも涙したのを覚えています。
でも、この生き方に当然賛否両論、でもいつも味方して下さったのが、夫である襄でした。今回はここまでです。
写真は、京都でのお2人のお住まいです。

2018年11月 5日 (月)

【大磯今昔・新島襄5】(Vol.139)

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【18.03.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
もう少し、新島襄にお付き合いください。(敬称略)

脱国者であった彼が、その禁を許されたのは岩倉使節団の通訳として米国・ヨーロッパに随行したことの功が評価されたからですが、この事には実は大きな意味が有ります。

「大磯今昔」を語りだして、後2ヶ月で3年になりますが、約50人近い方達の業績等を当時の思い、そして今を生きる私達への影響、そんなことを調べていますと国が行うイベントの、「明治150年」~明治維新から今年の10月23日で150年です。

この時代をスタートさせることで当然当時、整備しなければいけない事の一つに「不平等条約の締結」が有りました。
この命を受けたのが岩倉使節団でした。ところが、当然交渉はスムーズに行われる訳が有りません。いろいろな問題が蓄積していました。

今までもそうでしたが、今回の主役は、新島襄ですが語っていくうちに、色々な方達との接点が、浮かび上がってきます。横道に、それるように見えますが、大事なことですので続けさせていただきます。

その理由の一つに、キリシタン弾圧が有りました。
この事は、ヨーロッパには広く知らされることでした。
1614年に、全国禁教令が発布され約250年禁教が続いていました。
この事が、不平等条約の締結を阻んだいた理由の一つでした。
明治4年に、岩倉具視はヨーロッパでのことを、伊藤博文に電信を送りこの事を解禁しないと前に進めないと~。
そして、明治6年完全禁教が解かれました。

11055vol139今回の主役の襄はどうしたかというと、岩倉使節団に会ったのはアンドーヴァー神学校に在学中の明治5年(1872)3月の事でした。その前年に森有礼公使の斡旋により日本政府から留学免許状を受けていましたので、もはや脱国者では有りませんでした。しかし、政府からの援助を断り、アメリカでの勉強を続けていました。副使の木戸孝允と親交を結んでいた襄は、使節団の要請に応じて、田中不二麿文部理事官の通訳兼案内者として、ニューイングランドをはじめ、イギリス・フランス・ドイツ・その他の諸国の教育事情を視察して、ベルリンで田中の報告書「理事行程」の草稿を終え、田中に手渡したのは明治6年1月でした。後に、この報告書が日本の教育制度確立の上で、有力な拠り所となっていきます。この年の9月に、神学校に復学し、明治7年9月24日ボストン・マウント・ヴァ―ノン協会で按手礼を受けました。刻々と日本への帰国に向けて動き出します。今回はここまで。

前回で、譲がなぜこんなにも米国の皆様に愛されたのかお話しますとお伝えしていましたが、本当に勤勉で、実直で小さな努力の積み重ねの方でした。そのことに疑問を持たず、素直に突き進んだ方でした。

今回の写真は、同志社資料から転載をお願いしました。
アーモスト大学ジョンソン・チャペルに掲げられている新島襄の肖像画です。
チャペル内の正面に同校のOBクーリッジ大統領の肖像画と対のかたちで掲げられいる新島の肖像画で卒業30年を記念してクラスメイトが作成したものです。

2018年11月 3日 (土)

【大磯今昔・新島襄4】(Vol.138)

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【18.02.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回も引き続き新島襄を語ります。

前回はアメリカでの勉強のお話をしましたが、本当に素晴らしい支援者に出会い彼は幸せな留学生活(当初はまだ脱国者でしたが?)を送りました。ボストンまでの船の船長の理解・テイラー船長はボストンに着いてからは船主のA・ハーディ夫妻に襄の希望でもありますが、「どうかいい教育を受けさせてください」と懇願します。

テイラー船長から英語を学んではいましたが、十分に答えるにはまだ無理でした。
アメリカに来た理由を英語で語るにはまだまだでしたので、新島の英文の手記を読んだハーディは自宅に連れ帰りしばらく一緒に暮らして夫妻は、ボストンからあまり遠くないアンドーヴァーのフィリップス・アカデミー高校(全寮制)のS・H・テイラー校長に新島の教育を託しますが英会話が十分できないので寮生活は無理だと判断し、学校近くのミス・メアリー・ヒドゥンの家に下宿し、同居している仲間からの恩恵も受け、2年足らずで1867年に英語科を卒業します。

11034vol138高校を卒業した年の9月に襄が進学したアーモスト大学は1821年子弟に最良の高等教育を受けさせる事を願った地域住民の手造りのカレッジです。襄は、ここでも後の総長になるJ・H・シーリー教授の特別の庇護を受け室友にも恵まれ、春夏の休暇中は徒歩旅行に出かけ、鉱物採集や各地の見学をし、理学コースに学んだ襄は、1870年(明治3年)7月14日、アーモスト大学では十余年ぶりのB・S・(理学士)の称号を受けて卒業しました。

何故彼は、このような素晴らしい方達の協力が得られたのでしょうか?さらに掘り下げていきたいです。
同年九月、フィリップス高校のキャンパスに開設されたアンドーヴァー神学校へ入学し1874年(明治7年)に卒業、後按手礼(あんしゅれい~意~牧師)を受けます。

この間少し長くなりましたのは、岩倉使節団の要請に応じて通訳兼案内者としてアメリカからヨーロッパ(イギリス・フランス・ドイツなど)その他の諸国の教育事情を視察していたからです。今回は、大分マニアックな内容になりました。八重との結婚まで行きませんでした。又、次回に。今回は当てはまる写真が有りません。
毎日いろいろな方達を思い浮かべ大磯の町を歩いて見つけた春です。

2018年10月25日 (木)

【大磯今昔・新島襄3】(Vol.137)

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【18.02.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
新島襄を続けます。
前回は、ボストンに密航留学を果たしますが、この密航留学の時に、名を船主より「ジョセフ」と呼ばれたが、英字が難しく締めて「ジョー」=「襄」と名乗ります。

アメリカ時代は、船主のA・ハーディに見込まれ、養子扱いとして援助を受けフィリプス・アカデミー・アマースト大学を卒業、アンドーヴァー神学校で勉強を続けていく上で、当初軍艦や蒸気船を作ることも重要ですが、人間をつくるほうがもっと大事ではないかと、考えるようになります。当時のアメリカは南北戦争直後で活気があふれていました。
そして、自主・自立の気風に満ちていました。その精神を日本の若者に伝えることが自分の使命だと考えたのでした。

そんな時、日本は維新の世となり明治4年(1871)、岩倉使節団がワシントンにやってきて駐米少弁務使・森有礼(もりありのり)の通訳に抜擢され、新島はその才能を買われ、文部理事官・田中不二麿に随行してヨーロッパを歴訪します。(その時、密航の罪を解かれます)神奈川県知事をしていた、陸奥宗光(現在の古河電工大磯寮の東館が「聴漁荘」として、陸奥が住んだ所が現存しています。明治維新150年の真っただ中にいる方で、又、後程語ります)が新島の実家にこの時の、通訳としてのお給料を届けたそうです。大磯は、本当に色々な方のご縁があるところですね。

この時の功から、政府に仕官を進められますが、それを断り帰国の際には、アメリカの海外伝道協会からも自由にキリスト教が伝道できるように帰化を勧められますが、それも断り、誰にも縛られない自由な日本人として、キリスト教主義の学校を設立しようと、心に決めたのです。

帰国後、宣教師ディビィス・元会津藩士山本覚馬の協力を得て「同志社英学校」の設立へと進んでいきます。そして、大河ドラマ「八重の桜」のモデル、妻八重との出会いを次回に続けます。
写真は、京都での写真です。同志社大学・襄と八重の住居・住居の中での襄です。

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2018年10月24日 (水)

【大磯今昔・新島襄2】(Vol.136)

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【18.02.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回に引き続き新島襄です。(敬称略)
今迄、大磯今昔は別荘を持たれたり、本宅を構えたり、大磯の風光明媚・温暖な気候から療養にいらした方達等、全て大磯にかかわる方の大磯のこの時代に、こんな場所にいらしたことを語ってきました。

今回の新島襄も百足屋旅館に2ヶ月ほど、療養にいらしたが残念なことに終の棲家になってしまいましたが、そんなことを語らしていただいています。

何故こんなことを言うかと言いますと、新島襄が前回は脱国したところまで、お話しましたが、それより約10年ほど前に同じように脱国を試みた方のお話を、新島襄の脱国と対比したかったからです。(吉田松陰です~彼が、大磯に立ち寄った記録が見つかりませんでした)
ただ、あこちゃんは吉田松陰に関わる山口にも、刑が執行された小伝馬町刑場跡にも行ってきました。
又、新島襄のお墓が有る京都の若王子墓地にも行きました。
この1週間2人の事を考えると眠れない日々を過ごしました。事を成すには時期とやり方が有るのだと学びました。
もし読まれて不愉快に思われた方は、今から謝ります。

これを語るについて、何冊も彼らに関わる本を読み、あこちゃん語りとお許しください。
 幕末  吉田松陰は密航に失敗。
     新島襄は、密航に成功。
この違いは、松陰の時は、正式に開国前だった(1854年3月18日)開国交渉に来ていたペリーに直接渡航の談判をしに下田に停泊していたペリーの軍艦に、小舟で乗り付けたが、松陰は舟をこいだ事もなく、オールに着物の腰ひもを結び付け必死で漕いでたどり着いた時には、着物を羽織るだけのほぼ裸に近い状態だったとか、1説によると、その時伝染性皮膚疾患・疥癬を患っていて、それを見定めた者が乗船させるわけにいかない・もう1説米国使節は日本との国交を求めに来たのに、国禁の密航に手を貸すわけにはいかない。

松陰の考え方は、陽明学からくる考えで「知行合一」~意味hは知ることと、行うことは同じ心でなくてはいけない。計画を熟知しないまま考えた通りに、突き進まれた結果でした。
本当に残念です、もう1歩の時間が欲しかった。

では、それに比べ譲は上州安中藩士の家に生まれていますが、父親は江戸屋敷詰めの武士でしたので、江戸生まれの江戸育ち、生まれついての都会人でした。(語弊が有りましたら、お許しください)都会人ゆえに無謀な真似はしません。その行動は計画的で冷静そのものでした。

海外渡航を計画した譲は、まず蘭学を学び、次いで英学を学び、幕府の軍艦操練所に入所して航海術を修め、備中松山藩の洋型帆船に乗りこんで、航海術の実習を重ねて函館へその船で行き、脱国の地を函館と決めたのは北海道なら幕吏の眼が届かないのではとみて、元治元年(1864)6月15日、アメリカの民間商船に潜り込み日本を離れました。函館から上海を経て、出国から1年後にボストンにたどり着いてから、実業家A・ハーデイの援助を受け、フイリップスアカデミーからアーマスト大学に進み、アンドヴァー神学校で学びました。
今回はここまで。
写真ですが、PCを新しくした為全部移動が出来ませんでした。
譲の京都のお墓の入り口の写真を掲載します、次回詳しくお話します。

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2018年10月22日 (月)

【大磯今昔・新島襄1】(Vol.135)

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【18.02.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、新島襄を語ります。(敬称略)

日本の宗教家であり、同志社英学校(後の同志社大学)を興し、大学設立運動のさ中、志半ばで大磯の百足屋旅館にて、療養中に残念なことに亡くなりました。明治23年の事です。

百足屋の玄関口であった場所に、新島襄碑が有ります。(南問屋場の跡でもあります)毎年、命日の1月23日は同志社大学主催による碑前祭が行われ、参列して頂いた方には新島襄が好きだったといわれる、ぜんざい(個別の物)が配られます。そしてその地は、現在は同志社大学校地になっています。(へえ話として、今はお笑いのカズレーザ、クイズ王とかに活躍している方の、出身校で有名です)

では、出生から語っていきます。
今回もシリーズになりそうです、楽しみにして下さい。

父は安中藩士新島民治・母とみの長男として、神田安中藩江戸屋敷に天保14年(1843)に長男として生まれました。彼には、姉が4人いてやっとの男の子でもあり、生まれた日が1月14日で 小正月でしたので、まだ注連縄(別名~七五三縄)が飾られていて、その飾りを外す日の明け方に生まれた男の子でしたので、思わず祖父が「しめた~」と膝を打ったことから「七五三太~しめた」と名付けました。

元服後は、「敬幹~たかもと」となりました。譲となったいきさつは、これからおいおい語ります。
元服後に藩主の命で蘭学者・田島順輔から蘭学を学び、その時に友人から貰い受けたアメリカの地図書・他から、アメリカの制度に触れ、憧れを持つようになります。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学びます。ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意します。かつて、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船したことも有り、当時は禁止されていた海外渡航を思い立ちます。

元治元年(1864年)アメリカ合衆国への渡航を画策し開港地の函館(当時は箱館と書きます)へと向かい、潜伏中に当時ロシア領事館付きの司祭だったニコライ・カサートキンと会います。

ニコライは、新島から日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、新島はニコライから英語を習い、又、聖書に興味を持った新島に自分の弟子になるように勧めますがアメリカ行きの意思は変わらない事から、ニコライは折れ、坂本龍馬の従兄弟の沢辺琢磨・福士卯之吉と共に新島の密航に協力することになります。

今回は、ここまで。
写真は、大磯の新島襄碑の写真です。1月23日にはもう梅が咲いていました。

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2018年10月19日 (金)

【大磯今昔・鍋島直大2】(Vol.134)

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【18.01.29】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回に続き、鍋島直大を語ります。(敬称略)

明治29年(1897年)に大磯に「迎鶴楼」という別邸を建てました。当時の本邸は、現在の首相官邸です。
弘化3年8月27日(1846年10月17日)生まれ。
大正10年(1921年6月19日)75歳で亡くなられました。

当時は、成長と共に、又、養子に出るたびに改名していきます。
幼名は、淳一郎 直縄 茂実(1861年に将軍・家茂から茂の一字をもらう)直大。

ここからは「あこちゃん」の興味から出生のお話を少しします。
父・直正(当時は斉正)の正室・盛姫(11代将軍徳川家斉の18女)には子供が無く、37歳の若さで亡くなられました。新たに、継室として迎えた筆姫(田安徳川斉匡の19女)の嫡男として生まれたのが、鍋島直大です。なんでこんなお話をしたかと言いますと、後に直大も正室、継室との間のお子達が時代を継ぐ方達の奥様になられているからです。

そのお話をしながら、大磯で過ごされたご様子をしのびたいと思います。
この場所は、以前字稲荷松と呼ばれていたところで、1国を挟み向かいにはお稲荷様で有名な「宇賀神社」が有ります。

816坪の敷地で春は大磯で過ごし、夏は日光で過ごすのが例年の習わしです。
明治34年には、生まれて間もない裕仁親王殿下(後の昭和天皇)は貞明皇后(昭和天皇の母)と鍋島邸に避寒にいらしています。別邸は、その後関東大震災で倒壊し、大正15年再建され13代当主直泰(直大の孫)の夫人・紀久子(明治天皇の孫・朝香宮紀久子)が大磯に居を移され、住まわれていましたが亡くなられた跡、売却され現在は「大磯プレイス」となりました。

直大の正室(胤子~たねこ)の長男・直映の子・直泰の奥様が朝香宮鳩彦(明治天皇の子)の子・紀久子です。
直大の継室(栄子~ながこ)の次女が梨本宮守正の妻・伊都子(イタリアの全権公使をしていた時に誕生)、最後まで皇室に平民(美智子妃殿下)が入られることを反対していた方としても、名が有りますが、それは、ご自身の長女・方子(夫は韓国李王家・李垠・最後の皇太子)が韓国と日本の架け橋になる為の結婚を強いられたことへと繋がります。又、4女信子は松平容保(戊辰戦争の主)の6男・恒雄と結婚、その子・節子(勢津子に改名)は、秩父宮雍仁親王とご成婚。娘・孫の女性達が凄い人脈を作られました。

1019_2一度このシリーズ(大磯今昔、あ行~ン)が終わった後、今までの女性たちの身の上話ができる講演をしたいですね。
おまけの方と言ったら建築家の皆様にお叱りを受けるかもしれませんが、現在の「大磯プレイス」を設計された、宮脇檀は素晴らしい方で残念なのは、こちらが立ち上がるのを見ることなく1998年(平成10年)10月21日に62歳で亡くなられています。東京芸大に入学、担当教授に吉田五十八・吉村順三に学び、一年休学ののち東京大学大学院に入学、芸大時代から都市計画に興味を持ち、在学中に石津健介の依頼で「帝人メンズショップ」の設計を行い、その設計料で車を買い2ヶ月かけて日本一周し、全国の集落を見て、その経験から住宅地の全体計画の仕事に繋がったという方の設計で、なぜご紹介をしたいかというと、大磯町の中に、「大磯プレイス」が有りますが、その中にもう一つの町が有る感じなのです。

大磯には他にも有名な建築家が建てた建物が有ります、例えば、「滄浪閣」の右隣りの池田成彬邸は、ジョサイヤコンドルの孫弟子・中條誠一郎し、駅の裏側に赤星邸はジョサイヤコンドルの設計です。長くなりました今回はここまでです。

写真は、鍋島氏・娘さん・お孫さんと、ご許可を頂き「大磯プレイス」のエントランス他の写真と、隣の「滄浪閣」を掲載します。

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2018年10月16日 (火)

【大磯今昔・鍋島直大1】(Vol.133)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【18.01.22】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、鍋島直大(なおひろ)について語ります。(敬称略)
国と、県、大磯町が今年明治150年のイベントに少しずつ動き出している、元勲通りのちょうど真ん中ぐらいの場所に、明治29年頃大磯に別邸「迎鶴楼」を建てられました(現在は大磯プレイスです)。お隣の伊藤博文邸も程、同時期に「滄浪閣」を建て始めています。

彼が、どんな人かのイメージに繋がる方達を列記してみます。
梨本宮伊都子(娘)、李銀夫人方子(孫)、秩父宮勢津子(孫)、大隈重信(佐賀藩士)、松平容保(姻戚関係)、直大の孫・直泰夫人(明治天皇の孫・朝香宮紀久子)、「佐賀の七賢人」を育てた人。

では、語ります。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主・幕末の大名でした。明治・大正時代の政府高官であり、侯爵です。佐賀藩10代藩主斉正(直正)の次男として、弘化3年(1846年)に生まれ、文久元年(1861年)父の隠居により、11代佐賀藩主となり、戊辰戦争では征討軍として佐賀藩兵を率いて指揮を執り、功をあげました。16歳で藩主を襲封した時、藩政刷新を進め、藩の殖産事業としてパリ万博(1867)に有田焼を出展しています。

話が前後しますが、当時(嘉永2年―1849年)、不治の病であった牛痘の治療の為に、父・直正がオランダ商館から種痘苗を取り寄せ、4歳になったばかりの淳一郎(直大の幼名)で試したとか、結果緒方洪庵などに分けられ、種痘所を開くきっかけになりました。(凄い)そんな体験をした彼は、どんどんと新しいことに挑戦していきます。

明治4年(1871年)に、廃藩置県により佐賀藩知事となりましたが、これを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、又明治6年に2人の弟(直虎・直柔)と共に英国に留学、帰国後は外務省御用掛けとなり、明治13年には駐イタリア王国特命全権公使となり、その時に生まれたので、娘の名前をイタリア(伊)のみやこ(都)、伊都子、後の梨本宮伊都子です(ナ行の時に語ります)。
その後、元老院議官・宮中顧問官・貴族院議員・を歴任して、天皇の信頼も厚く、当時の第一流の文化人と言われました。
明治16年には、鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営に与し、鉄道建設・音楽推進など洋行帰りの名士として井上馨と共に近代化政策を牽引しました。

ここからは、業績を語ります。明治19年大日本音楽会設立、会長となり、明治23年貴族院議員、東京音楽学校を開校、明治25年叙勲一等・正二位、明治44年皇典講究所第4代所長に就任と同時に神職養成機関である国学院大学学長に就任し、皇典講究所付属の夜間部の日本法律学校は、現在の日本大学で、その日本大学から近畿大学が分離しています。父の後を受けて人材育成につとめ、「佐賀の七賢人」~副島種臣・江藤新平・大木喬任・佐野常民・島義勇・大隈重信(明治30年頃、大磯の別邸の隣に彼も別荘を持ちました。)を育てました。

次回は、大磯別邸でのお話と、当時の地名は「西小磯字稲荷松56,85外」でしたが、現在は「大磯プレイス」という分譲マンションになっています。この設計者の方のご紹介も次回は一緒にしたいと思います。
今回は顔写真が間に合いませんでしたので、今年「明治150年」のイベントが行われる通りと近辺の写真です。

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