大磯今昔

2018年9月19日 (水)

【大磯今昔・鈴木梅四郎2】(Vol.115)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【17.09.04】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回に続き、今回も鈴木梅四郎です。(敬称略)

今回は、大磯での功績を中心にお話をします、何故かというと、彼は「医療の社会化」という、庶民を医療費の重圧から
解放する為に国や医学界を相手に戦った方で、その業績は素晴らしいものが有りますが、それを語るととても大変なので、大磯での業績だけでも、本当に驚嘆すべきものが有りますので、その事を中心にお話していきます。

育英事業として、29歳の頃から、自分の俸給の二割をさいて苦学生を養育されました。
その門下生百余名の浄財をもって、妙大寺の境内の胸像・顕彰碑が建てられました。

昭和3年(1928)に有志と計り大磯研究会を組織し会長として、大磯の遺跡保存・町功労者の顕彰碑建立、文化・教育・観光事業に尽力されました。

昭和天皇御大典を記念して大磯小学校に鈴木賞をもうけ学業優秀・品行方正・体格優良な児童5名に腕時計を贈り、教育の振興をはかられました。

昭和4年に松本順先生(海水浴発祥の地としての大磯を広めた方です)の謝恩碑建立の募金を募り、照ヶ崎海岸に建設されました。「松本先生謝恩碑」の題字は犬養毅(つよし)、碑文は鈴木梅四郎です。

又、大磯小学校の校長を助けて、岩崎邸の農場を譲り受けて運動場の拡張を行いました。(昭和19年11月3日から運動場として使用するようになりました~菱陰広場と名付けられました。)

又、千畳敷(現在の湘南平)へのハイキングが多くなったので楊谷寺谷戸の山水を自費で鉄管を敷設して水を引き大磯駅裏の山手を通して千畳敷迄引水して登山者の用水の便を計りました。
この事業は、大磯町の観光事業として驚嘆すべきことで、大磯の為に大いに尽くされた方です。

残念な事に、昭和15年(1940)4月15日、急性肺炎の為78歳で亡くなりました。
ご冥福をお祈りします。
夫人(阿虎~おとら)と妹君も人望が高く、大磯婦人会会長を務め、戦中・戦後活動に尽くされました。

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写真は、謝恩碑・大磯小学校~題字は吉田茂です。
現在も残っている旧鈴木邸の銀杏の木~10メートル以上は有ります。

【大磯今昔・鈴木梅四郎1】(Vol.114)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【17.08.28】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、鈴木梅四郎を語ります。(敬称略)

彼は、大磯町で多大な貢献をしている方のお1人です。
鈴木梅四郎は、文久2年(1862)に長野県安茂里(あもり)村 (現長野市安茂里)鈴木龍造の次男として生まれました。

明治14年(1881)に上京して慶應義塾で学び卒業後、横浜貿易商組合の顧問、横浜貿易新聞の経営、この後に、彼は明治27年(1894)に三井銀行に入行しますが、それは中上川彦次郎(この方も大磯に住まわれていました)が三井入りし、三井銀行の大改革に着手することになり、そこで、慶應義塾出身者、特に新聞記者経験者を集めようとして、鈴木梅四郎に白羽の矢が立ち、彼は三井銀行に入行します。

彼も、苦学生の時代が有り、慶應義塾を卒業してから時事新報社に入社、これは福澤諭吉の愛弟子として育てられ、在学時代は学費不足を補うために、福澤の紹介で時事新報社でアルバイトをしていて、当時社長だった中上川彦次郎との縁で、時事新報社に入社したのでした。

明治24年(1891)に福沢の推薦で横浜貿易商組合の顧問となります。
この時から彼はお給料の2割をさいて明治34年(1901)から大磯の自宅に「晩成社」(一説では横浜説もあり)を設けて中学優等卒業者の中から資金の許す限り収容して、自宅より専門学校に通学させて、大成を期しました。
若い頃の自分と重ね合わせたのでしょうか、苦学生たちを養育されました。
その時の門下生百余名の浄財で、妙大寺の本堂・左横に胸像が建てられました。

明治39年(1906)に東小磯大門に別荘を持ち、大磯の名士を招き、盛大な園遊会も催されました。
この後まだまだ大磯でのお話が続きますが、今回はここまで。

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写真は、その東小磯のお住まいに素晴らしいシンボルツリーになっている銀杏の木が、有ります。
現在の住人の方に許可を頂き銀杏の木を掲載させて頂きました。
そして妙大寺胸像も載せました。

2018年9月17日 (月)

【大磯今昔・地福寺】(Vol.113)

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【17.08.21】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、地福寺です。
先日、「真夏の散歩道」でも、取り上げましたが明日は、「藤村忌」が有りますので、是非読まれたら確認しに地福寺に足を運んで下さいね。

地福寺は、船着山地福寺と称し東寺真言宗の古刹(意~古い寺~読みはこさつ)です。
承和3年(837)空海の弟子、果燐の創建と言われています。

町指定・有形文化財の木造弘法大師坐像が本尊で胎内に墨書銘が有り、天文11年(1542)佛師但馬作とあります。右手に五鈷杵、左手に念仏を執って坐す通形の弘法大師像。寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げの小ぶりな像です。作者・造立年のわかる室町時代の弘法大師像として貴重な作例です。

他に永禄2年(1589)と天正17年(1542)の文書2通があり、小田原北条氏から特別な保護を受けた資料で、共に大磯町指定の文化財です。

境内に島崎藤村夫妻のお墓が有ります。
お友達の天明愛吉が離れに住んでいたご縁も有りますが、何故、境内地にお墓があるのでしょうか?
当時、境内地使用決定権は神奈川県知事に有りました。
昭和18年の神奈川県知事は、現在の長野県千曲市屋代の出身で、内務官僚・弁護士・もなさった近藤壌太郎の鶴の一声で、境内地にお墓が作られました。

藤村をとても尊敬していたと聞きました。亡くなられた当時は、土葬でした、7回忌に現在のお墓に改葬されました。
設計は、谷口吉郎(東宮御所・明治村・東京国立博物館等)で、3大墓所の一つで、山口県の森鴎外・鎌倉の吉江信子と、こちらのお墓です。

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後に、静子夫人のお墓が隣に作られましたが、遺言であったと聞きますが、静子夫人はクリスチャンでしたので、家族もあきられていましたが、住職の深いお心で、隣に作られました。

藤村の遺爪・遺髪は菩提寺の馬籠の永昌寺に分葬されました。
お墓の壁面の石垣は、小諸義塾に勤務していたころ暮らしていた、小諸の懐古園の石垣にとても良く似ています、その事も、こちらにお墓を作って欲しい大きな要因だったと思います。

ここからは、地福寺へえ~話です。藤村が、友人天明愛吉を訪ねてきた道は実は、大磯駅前の「ほっこり」の隣の美容院の脇に、20段ほどの階段がありますがそこを通り、地福寺のお墓の1番奥に通り道が有りそこを通って来ていたとか、その写真を2枚(昭和25年に閉鎖されました)、静子夫人のお墓の側にお地蔵さまが沢山ありますが、其の2体が突いている鉄の棒に、十字架が彫られています。
そこも謎です、見つけて下さい。写真を撮りました。

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明日の法要は、午前10時からです。法要・回向が終わりましたら、献花・献香があります。(お花も、お線香も観光協会で準備しています)今年は、本堂前にて行います。(雨天のみ、本堂の中です)、お待ちしています。

では、次回。

2018年9月15日 (土)

【大磯今昔・真勝寺】(Vol.112)

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【17.08.14】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、前回でご紹介した守公神社と同じく国府祭の時にご紹介されることが多い、総社・六所神社の別当寺の真勝寺について語ります。

0915vol112場所は、馬場公園から守公神社に向い裏手の高台にあります。
相府山・遍照王院・真勝寺は古義真言宗東寺派のお寺です。
寺伝によると、天平の頃、聖武帝・光明后の勅願(意~時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。
寺格の1つ。読みは、ちょくがんです)があり、行基上人によって創建されたと伝えられています。「新編相模風土記稿」などに、相模国余綾国府(さがみのくによろぎこくふ)に属する国分寺として、又、六所神社の別当寺(意~神仏習合のころ、神社に付属する寺の事)であったと記録されています。

律令制の失われた中世以降の記録は定かでは有りませんが、治承4年(1180)富士川の合戦の帰路、源頼朝は当寺に入り、論功行賞などを行い、石橋山合戦(現在は鎧塚レストランが有ります)の折に敵対した大庭景親との記録も有り、当時街道筋における大寺であったことは、容易に推察できます。
これ以降、当寺は衰微(意~衰えて勢いが弱る事、読みはすいび)しますが、室町時代末期に真長法師(天文13年没~1544年)が力を尽くし中興し、江戸時代に入り徳川将軍代々の庇護を受け、寺領50石をうけ広い寺域を伝えながら現在に至っています。

ご本尊として祀られている如意輪観音像(もと観音堂のご本尊)は丑年ごとにご開帳が行われています。(あこは、前回の御開帳でご本尊様を拝観しました、因みにあこは丑年です、ごめんなさい関係なかったですね)

次回は、4年後です、是非いらして下さいね。
寺宝として数多くの画像・筆跡などが有りましたが、残念な事に大正元年の火災で焼失しましたが、わずかに残された仏像のうち薬師如来像は鎌倉時代末頃の作風、阿弥陀如来像は江戸時代初期の作、宝冠釈迦像は南北朝の頃の造像と思われます。

時代を経て、更に大火を潜りましたので、破損・補修がただあるのは、残念ですが残っていてくれたことに感謝です。

更に真勝寺近くには、国府が置かれ政務を執った役所(国衙)があったところ(現在で言う県庁)です。
前々回から、白岩神社、守公神社、と語ってきましたが大磯の西側、西小磯、国府地区が大磯発祥と言われる由縁がここにありです。
是非1度お参りして下さい。
写真は、真勝寺、本堂・本堂からの眺め(ロングビーチが見えます)・参道から本堂を見たところ。
では次回。

2018年9月14日 (金)

【大磯今昔・守公神社】(Vol.111)

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【17.08.07】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
早いもので、月曜日の「大磯今昔」を担当しましたのが、2015年6月22日から、約2年2ヶ月を迎えます。

初めてご覧になる方、つい最近から見て下さっている方は、何を基準に毎週進んでるのかと思っている方も、いらっしゃるかと思います。
やはり始めるのは、あ行からの人物と思い第1話は浅野総一郎さんから始めました。そして、現在さ行のしです。

大磯は凄いです、2年経ってもまだ「し」の行です。
ただ最近は、人物だけでなく史跡・建物のご紹介もしようとこの2か月は進めています。
そんな訳で、今回は5月5日の「国府祭」にはご紹介しますが地元の方以外は、大磯の方でも知らない方が多いのではと思います。

0914vol111「守公神社」を語ります。
守公神社の場所は馬場公園の近くです。
相模の国総社「六所神社」の主祭神・櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)の御父神・脚摩乳命(あしなづちのみこと)、御母神・手摩乳命(てなずちのみこと)が祀られています。

創建は養老2年(718年)4月8日、養老の律令制により国府祭が出来、総社六所神社の摂社(意~本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った総社の称。)として祀られました。

天文10年(1541年)に天下祭と称する国府祭の守護神となり、馬場(昔は警察機能を備えた「番場」と伝えられる)に奉還されました。

その後、大正6年(1917年)に無資格の神社を合併したとき、六所神社へ合祀して馬場の社殿は取り壊されました。
昭和26、7年に又戻すことになり、大磯駅前の岩崎邸の稲荷神社の社殿を譲り受けて、六所神社から御魂を移して遷座し、現在は宗教法人になっています。

では、次回に。
写真は、御社殿・由来書・鳥居です。

2018年9月13日 (木)

【大磯今昔・清水満之助】(Vol.110)

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【17.07.31】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、人物と場所も素敵なところのご紹介をします。(敬称略)
4代目清水満之助、その別荘跡(大磯のビバリーヒルズと呼ばれているところです)です。
(現西小磯字西柳原296)

では、清水満之助について語ります。
満之助は、3代目清水満之助が急逝(明治20年、享年34歳)し、8歳の長男喜三郎が4代目清水満之助を襲名しました。
生来病弱で昭和4年に50歳で亡くなるまで経営には余り係わる事は無く、結婚もしませんでした。

大磯の地は、明治33年頃西小磯西柳原28番地外の土地を別荘として購入、正門脇に家を建て、大磯署の巡査を住まわせました。
又、西隣の八阪神社を立て直しました。(その時に灯籠に清水の名が刻まれています)

別荘跡地は、三菱商事が購入し、設計施工はもちろん清水建設、更に街並みをデザインするスタジオランドジャパンという会社が加わり共同開発されました。

現在この地は約5000坪を、平成15年(2003)、区画数40、分譲地は「大磯松韻」と名付けられ、販売が開始されました。
「歴史のある大磯らしい住環境を将来にわたって維持したい」というコンセプトのもと、町との協議で「地区計画」「緑地協定」が策定され、家の周りは塀やフェンスを設置せずに植栽で整備する旨や、各家に1本以上の高木によるシンボルツリーなどを植えることが決められました。

この地を何故、ビバリーヒルズと呼ばれるようになったかというと、街並みに電線・ケーブルなどは共同溝による地中化を図る事で外には全くありません。(地下埋設形を取り入れてるからです)更に「星の見える街」海岸線の美観を街区に復活させ、保存樹木を活かした上でクルドサック(回遊式庭園道路)をもうけるなどし区画の平均面積は約300平方メートル以上当時で価格4千万から1億円で分譲されました。

1号線の入り口に「大磯松韻」という自然石を利用した標石が鎮座しています。
5月の観光協会主催のオープンガーデンはとても華やかです。来年は是非御来磯して下さい。
では、次回に。

写真は、八坂神社・灯籠に清水の刻印・1国入口に自然石の大磯松韻の名・電線が無い街並み・大磯松韻から境の通常の通りの写真です。

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2018年9月10日 (月)

【大磯今昔・白岩神社】(Vol.109)

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【17.07.24】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、白岩神社です。大磯を大きく分けますと、駅より東側に高麗神社、そして西側(国府地区)に六所神社、という大きな神社が有ります。
今回語らしていただくのは、普段は無人の神社で、本当にその真ん中に位置しています。

周りには、鎌倉古道が通っていて別荘・住宅地帯に変貌しながらも白岩神社参道に行きますと、急に歴史がある神社だと伝わります。
西小磯の鎮守である「白岩神社」は、御祭神は伊弉諾尊・伊弉冉尊(いざなぎのみこと・いざなみのみこと)です。

相模風土記稿には十二所権現社として記されています。
天正19年(1591年)の記録が残っている。

0910vol109例祭は正月7日でしたが、現在は3月7日に行われていますが、とても珍しいお祭りで、馬に乗って行う流鏑馬は皆様もご存知だと思いますが(これは、西行が鎌倉に行った時に教えたと伝えられています)ここのは、歩射(オビシャ)という珍しい行事で、馬には乗らず、社人(しゃじん)が13人いて、祭日の宵宮の朝、社人は海水で身を清め、当日の正午社人一同羽織・袴・白足袋で集まり、頭屋(当番の家)から神に七十五膳のお供え(海・山の幸を長持ちに入れて持参)をします。

巫女(小学生)の「浦安の舞」が奉納されますと、午後から流鏑馬の一形式であります歩(び)射(しゃ)(オビシャと称されています)の行列の先頭は御幣かつぎで太鼓・弓持ちと続き、行列の人は半紙を三角に折って口にくわえて歩き、境内に作られた的の周りを右に三回廻ってから的に向い、一の矢を射る、二の矢は恵方(えほう)に向って放します。

一の矢は作物を害する鳥の目を射て、二の矢は悪魔を退散させるという行事です。
是非一度、いらして下さい。

かつての御社殿は火災で焼失しましたが明治36年(1903)に再建され、この時伊藤博文公から多大な援助を受けたので、境内に記念碑が建立されています。
更に裏山には、「曽我五郎十郎の足跡」、地元の古老のお話では、大きな石をぶん投げた時に力んでついた足跡の窪みが二つあり、その石は本郷山を越えて、五郎の蹴飛ばし石として、谷戸観音の手前に残っていると。
その近くは一面畑ですが昔「幻の新楽寺」という大寺が有ったそうです。

新田義貞により鎌倉攻めの時に焼き討ちにあったとか~。
次回は続きの史跡にしますか、人物にしますか、お楽しみに。延々と語れる大磯の奥深く残る歴史に、今更ながらびっくりです。
写真は、白岩神社の例祭が行われる場所、伊藤公の胸像が収められているお堂、謝恩碑、五郎の蹴飛ばし石等です。

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2018年9月 7日 (金)

【大磯今昔・ジョサイヤ・コンドル】(Vol.108)

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【17.07.17】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、明治30年代後半に大磯に別荘を持っていた、ジョサイヤ・コンドルについて語ります。(敬称略)

今この名前を聞いてどのぐらいの方が、あ~知っていると言って頂けるか解りませんが、「大磯今昔」を担当する者としては、周りはお祭りムードで盛り上がっていますが、粛々と語らせて頂きます。

彼はイギリス・ロンドン出身で、ロンドン大学で建築を学んだ建築家で、ゴシック建築の権威であるパージェス設計事務所で腕を磨き、1876年(明治8年)王立建築学会の若手登竜門ともいうべき、ソーン賞設計コンペで優勝します。
その翌年、日本政府の招聘(しょうへい)を受け24歳で「お雇い外国人」として明治10年に来日しました。
来日すると直ぐに教鞭(工部大学校造家学科現在は、東京大学工学部建築学科の前身~この時の生徒の1人が今有名な東京駅を作った辰野金吾がいます。)を取りながら、政府関係の設計を手掛けます。
例えば~鹿鳴館・ニコライ堂・海軍省・旧東京帝国博物館等。

鹿鳴館は特に井上馨外務卿から「不平等条約の改正の為には日本が物心ともに欧化する必要がある」との考えから明治16年(1883)鹿鳴館が日比谷に完成しました。
結果はあまり上手くいかず、井上馨が失脚、彼の建築に関する日本政府の評価は低くなったが、それに代わるように、岩崎弥之助率いる三菱財閥が新しいパトロンとなって、丸の内赤レンガオフィスビル・台東区の岩崎別邸(現存しています)・大磯では東小磯に赤星弥之助(鉄馬)邸を明治37年に設計、自身も明治39年に西小磯西柳原に土地1513坪を購入し別荘を建てた。
(外国の方という事で、彼の名義では買う事ができず、奥様~前波くめの名義になってます)今、その場所は、「アクアテラス大磯」になっています。

0907_vol108後、辰野金吾の弟子(この呼び方が良いか解りませんが?)中條精一朗が設計した家が現存しています、コンドルの孫弟子になります、旧池田成彬邸です、建物100選に選ばれた素晴らしい建物です。

近代日本建築を数々作ったジョサイヤ・コンドルも大磯に別荘を持っていたんですね。
そんな彼を愛した奥様は、大正9年4月頃からコンドルが病気がちになり、日本建築学会から来日以来の功績を顕彰されて間もなくの6月10日くめが看病疲れで急死、後を追うようにコンドルも21日に亡くなりました。
「日本と日本文化を愛し抜いた生涯でした」と、娘のヘレンが語りました。お墓は、東京の護国寺に有ります。
(つい先だってお墓参りに伺いました)ご冥福をお祈りします。

2018年9月 6日 (木)

【大磯今昔・鴫立庵8】(Vol.107)

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【17.07.10】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
鴫立庵は今回で最終回を迎えました。
石仏、石碑80点以上、お堂が3つ、庵、井戸、オブジェ等々すべてのご案内は出来ませんが、ここは押さえて欲しいポイントはいくつかご案内が出来たと思います。
今回は、普段は中を見ることが出来ません、「福徳観音堂」のご案内と、五智如来、オブジェの元になったお話しをしたいと思います。

0906_vol107では「福徳観音堂」は、大磯町役場と隣接する1番奥にあり、お堂は第十七世庵主神林時処人が寄進しました。本尊は観世音菩薩像で、中国清朝末期の革命家の祖、孫文の持仏で二千年を経た化石仏です。それを何故、時処人が持っていたか?(大磯に別荘を持っていたビタミンの父と言われた、高木兼寛が関わります~当時亡命していた孫文が盲腸になりそれを助けたのが高木兼寛でその時彼が孫文よりいただいた物を、時処人が貰い受けたと聞いています。時処人は俳人より以前は宗教人で、芝増上寺で役僧として従事していた時に高木と出会い持仏を託されたという事です?~後又、高木兼寛についても語ります)堂内の天井や壁画は、朝鮮宮興徳殿の一部を寄進されたものであり、時処人の遺徳を偲ばせるものです。

「五智如来」は、その反対側、庵の裏手にあります。小田原の崇雪が寛文4年(1664)石仏五智如来像(釈迦、阿弥陀、大日、阿?、寳生)をこの地に運び庵を結び、最初はこれを本尊として西行寺を作る元になった石仏です。(崇雪は小田原外郎の一族とされる橋本伊衛門です)

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そちらを見て、庵の裏の階段を下りてくると、1メートル近い蛙のオブジェが目に飛び込んできてビックリします。昨年から今年にかけて大磯町がオブジェ祭の1つとして行った作品です、もう1点は法虎堂の右横に有ります。

蛙の元になった置物は、受付を入ってすぐ右手のガラスケースの中に有ります。第十五代庵主原昔人が当時親交のあった正岡子規に贈った蛙(蛙鳴蝉噪~あめいせんそう)の元になったものです。
彼は、カリエスを患い苦しんでいた子規を励まそうと送ったものとか。
まだまだ、続ける事は出来ますが、今回はここまでです。
写真は、お話に基づいた順番に掲載しました。

2018年8月31日 (金)

【大磯今昔・鴫立庵7】(Vol.106)

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【17.07.03】掲載文

0831_vol106「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回に引き続き、鴫立庵のお堂に関わるお話です。後、お堂は2つ有ります。
「円位堂」と、「福徳観音堂」です。

『円位堂』は、大淀三千風の建てた元禄そのままの建物で、堂内には等身大の西行法師の坐像が安置されています。
三千風は西行法師五百年忌(法虎堂の左横に碑が有ります)の機会をとらえて、鴫立澤や庵を大いにに宣伝しました。
(三千風は当時から、今流の言い方で言うと~名プロデューサーでした)元禄9年(1696)、京都に上って西行とは縁の深い文覚(もんがく~彼も北面の武士でした)上人の鉈造りという西行の木像を求めて来て円位堂に安置しました。とても眼光鋭い像ですね、それは目が玉眼(眼球の部分をくり抜き水晶を入れた)で、この鋭さは作者に何かあるのではと、興味を持ってしまいました。

ここからあこちゃんストーリー、少し横道に行きます~実は文覚上人の事も調べたく1昨年京都の山奥・神護寺まで行って来ました。

彼は19歳の時、京を警護している時、素晴らしくきれいな方に出会い、その方が忘れられず調べていくうちに悲しい現実を知る事になります。

従姉妹のその人でした、結婚話が進んでいたのに、暫く合わないうちに別の方と結婚した事を知る事になります。それがどうしても許せず、毎日別れるように迫ります、困り果てた彼女が出した結論が、「今夜寝屋に来て、主人を殺してくれたらあなたの元に行きます」そして、忍び首を切り持ち帰り見てびっくり、恋い焦がれていたその人袈裟御前でした。貴方の要求は、道理が通らない事なのだと、身をもって彼に伝えたかった。そして彼も死を選ぼうとしましたが、一言袈裟御前の御主人に謝りたく向かいそこで、仏の道に入る事になり荒法師として苦行します~でも本当はどうなのか更なる確認をと、文

0831_vol1062覚上人(遠藤盛遠と言います)、袈裟御前、源渡(袈裟御前の夫)の像が安置されている、文覚上人が袈裟御前の菩提を弔う為に建てた、京都の伏見区下鳥羽に建てた『恋塚寺』にも行って来ました。そこで、大黒様(住職の奥様の事)ととても仲良くさせて頂き、色々お話を聞かせて頂きました。今回の分には収まりません、又、次回。写真は全て現地で撮影しました。文覚さんのお墓は、神護寺の山の奥の奥で住職からは行くなと止められましたが、大磯からこのために来てますので、絶対行きますと、頑張って行きました、でも獣道で、さすがにあこちゃん1人で怖かったです、野生の猿の親子にも遭遇しました。恋塚寺は、大黒さん自らご案内して下さいました。

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私と東海道との係わりの源です

西湘を拠点にして色々なプロジェクトを立ち上げて奮闘しています。そして私も遊ばされています。

きれいな水と美しい緑を、再生し、育み、守るために活動しています

NPOな人 椎野修平ブログ