大磯今昔

2019年2月14日 (木)

【大磯今昔・休み前総括】(Vol.181)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【18.12.31】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
2018年度、最後の日になりました。
大掃除に忙しい方、終えてゆっくりテレビや本を読んでる方達、それぞれの時間をお過ごしかと思います。

2015年5月22日から、月曜日「大磯今昔」のあこちゃんを担当してきました。
今日を以てしばらくお休みをいただくことになりました。
終了では有りません、何故かというと、スタートしました時、「大磯の別荘」には、219名の著名人が掲載されています。
しかし約3年7か月で、語れたのは70名ほどでした。
1人1回の投稿ではすみませんでしたので、一番回が多かったのは、澤田美喜で12回、伊藤博文・島崎藤村が11回でした。
まだまだ語りつくせません。

今回のお休みは、今まで語ってきた方達の、文章の変換ミスや、写真の添付ミスを含めて、1度見直したいのです。
更に、垂れ流し(すみません言葉がきれいでなくて)的になっていて、修正と校正を加えて、少しまとめてみようと思います。
投稿しながらでもと考えたのですが、実はこの投稿がきっかけで、今年の4月からタウンニュースの大磯・二宮・中井版に「明治150年記念連載~大磯歴史語り」毎月第2週・第4週に実名で投稿されるようになりました。

どちらも中途半端になる訳にはいきませんので、こちらは永遠では有りませんので、期限が有りますので、それが落ち着きましたら、又復帰も考えてみます。

ここで大磯に関して皆様に確認です。
(名誉町民)第1号吉田茂。第2号安田靫彦(まだ語ってません)。第3号曽根田恭男。第4号高橋誠一郎。第5号島崎藤村。第6号澤田美喜。第7号大隅良典(まだ語ってません)

(文化勲章受章者)①昭和12年佐佐木信綱。②昭和23年安田靫彦。③昭和25年正宗白鳥(まだ語ってません)。④昭和26年中村吉右衛門。⑤昭和29年鏑木清方(まだ語ってません)。⑥昭和44年獅子文六。⑦昭和52年山本丘人(まだ語ってません)。⑧昭和54年高橋誠一郎。⑨平成15年加山又造。 イタリア文化賞、矢代幸雄(まだ語ってません)
(総理大臣経験者)第1代・伊藤博文(5,7,10代)。 第3代・山縣有朋(9代)。 第8代大隈重信(17代)。 第12代西園寺公望(14代)。 第18代・寺内正毅。 第19代原 敬。 第24代加藤高明。 第45代吉田 茂(48,49,50,51代)。全て大磯に居を構えた方達です

まだまだ素晴らしい方達の足跡が有ります。
では、今しばらくお休みを頂きます。

2018年本当にFBをご覧いただきありがとうございました。
2019年も素晴らしい仲間たちが投稿します。引き続きよろしくお願いします。

※今回もって大磯今昔は私のブログも一度終了させていただきます。

2019年2月13日 (水)

【大磯今昔・大隈重信の生家】(Vol.180)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.24】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今年も今回の投稿が終わると、後1回になりました。

そして、大磯邸園の公開も今日が最終日です。
邸内のご予約は無理でも、庭園はまだ間に合います。14時30分までには、現地にお入りください。
今後の予定は、まだたっていませんので、是非ご覧になってください。

213_vol1805今回はこの公開の舞台になりました、大隈重信の生家・記念館の報告をしたいと思います。
大隈は維新の前まで、薩長(現・鹿児島県・山口県)・肥前(現・佐賀県)として素晴らしい活躍をしていましたが、大隈の藩主である・鍋島直正は大隈の進言を聞かず、一歩引いてしまったことから新政府は薩長の時代へと突き進むことになりました。しかし大隈自身の評価は素晴らしく、その業績を綴ります。

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大政奉還によって幕府が崩壊し、長崎奉行が仕事を放棄し長崎を去った後、諸外国の事情や文化に詳しい大隈が外国との折衝を一手に引き受け、様々な問題を公正厳密に処理しました。
この仕事は本来、長崎に在籍していた各藩の合議によるものとされましたが、実際は大隈のもとに集中するかたちとなり、その働きぶりが認められ、大隈は新政府での国造りに携わることとなります。

長崎での仕事に忙殺される大隈のもとに、新政府から「江戸・横浜に御用有り」と呼び出され、途中大阪に立ち寄るように指示されました。
これが折から、キリスト教宗教問題の教徒処分に関して、英国を始めヨーロッパ諸国から激しい抗議が寄せられていました。
その代表が、英国公使ハリー・パークスでした。
31歳の大隈は各国公使連合との談話会議に参加し、欧州で起こった宗教戦争の歴史に触れ、日本政府が主導して解決すべき問題であると主張して、パークスと一歩も引かない議論を繰り広げました。この1件により、大隈の外交手腕がますます注目されました。

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32歳で上京すると、築地に構えた大隈邸は梁山泊と呼ばれ、伊藤博文・井上馨など当時の豪傑たちが訪れ、連日連夜賑わいました。
上京後、大隈がなした偉業は数多くあり、代表的なものとして偽造や劣化の激しかった通貨を円形に改め、4進法から10進法に変えたこと。
そして、鉄道の新設も大隈の役割が大きいです。

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国会開設建議に端を発した明治14年(1881)の政変での下野からも解るように、その急進的な発想は対立する薩長政府などから幾度となく非難されたが、現代の私たちの暮らしをみても、大隈の発想の斬新さや、成しえた功績は大きかったことが実感できます。今回はここまで。

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写真は、生家の中や、お父様が亡くなった後、母三井子は大隈を厳しく育てたことで有名な「ごっつん柱」、銅像は早稲田の大隈講堂の回廊に本物が有りますが、普段は見れません、記念館前にレプリカが立っています。アカデミックガウンは、記念館の2階踊り場に、レプリカですが有りました。当時義足は、5本ありましたがその1本が記念館に飾られていました。

2019年2月12日 (火)

【大磯今昔・澤田美喜記念館2】(Vol.179)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.17】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
年内も残すところ、後2回です。4年もの間、本当に有難うございました。

皆様の心に響くご案内が出来ているのか、日々悩みながらの4年間でした。
「大磯今昔」というタイトルで始めましたので、正直気苦労も多かったです。
皆様のおかげで、何冊いや何十冊、いやなん百冊の書籍、何十か所大磯と関わりのある方を、日本中を訪ねる日々でした。
その励みも皆様が見ていて下さるので、苦しくも楽しい日々でした。
観光協会の他の仲間達はこれからも沢山の情報を伝えてくれますので、更に楽しみにして下さい。

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今回は6月に長崎・島原・天草が潜伏キリシタンの世界遺産登録をされたことで、前回ご案内しました、澤田美喜記念館も俄かに賑わいを見せています。
何故かというとあれだけの「隠れキリシタン」の収蔵物が長崎には有りません。
ここで、潜伏と隠れという言葉が気になりますが、大きなくくりは、「潜伏キリシタン」です。
隠れキリシタンはその中に入ります。

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更に禁教が解かれた後に、袂を分かつようにカトリックに復帰せずにそのまま今までの、仏像或いは偶像信仰を続けながら、信仰をつづけた方達を「隠れキリシタン」と言います。
その収蔵物の展示記念館が澤田美喜記念館です。

11月の末に3日間程ですが訪ねてきましたのは、澤田美喜が収集するために歩いたであろう、長崎・大浦天主堂(拝観料・千円)展示館も今までよりだいぶ増えました。
外海地区は、「沈黙」の映画で有名になりました、遠藤周作記念館(彼は、澤田美喜と面識があり、澤田美喜記念館の建設趣意書にお言葉を頂いています)、そこに行く途中に黒崎教会、更に進むと日本に3か所しかないと言われている、「キリシタン神社の一つの枯松神社」神社の中には、神父のお墓が有り隠すように、祭壇が有ります。

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神社に登る入り口には、杖が何本も置いてあり険しい登りで、途中に祈りをささげた岩場も残っています。
島原の乱が有った、「原城跡」も行って来ました。

記念館にも、天草四郎時貞を描いた掛軸が有ります。
その掛軸の真ん中に天草四郎時貞が描かれ、胸に十字架が有り、背後に彼を支える武士の兜にも十字架が描かれています。
先日、天草から記念館にいらした方がいて、何故こちらへの問いに、展示物の多いことを聞いて見にいらしたとの事です。

是非皆様にもご紹介したいと思います。又、長崎歴史博物館にも行って来ました。
長崎奉行が長崎の鋳物師・萩原祐佐に作らせた踏み絵も見てきました。
記念館にも有りますので、ご覧下さい。キリシタン禁教令が出されたのは、1612年(教科書には1614年説有り?)では、解かれたのは何時で、明治維新に何が起きたか、ご存知ですか?

実は最後の弾圧が有ったのは、明治維新です。
明治天皇を神格化したことで、キリスト教の神は要らないということで、最後の弾圧が有りました。

212_2vol1794そんな折、明治4年に岩倉使節団がヨーロッパを廻り、幕末に結ばれた不平等条約の締結の修正に行きましたが、日本よりヨーロッパの方がこの弾圧が伝わっていて、そんな野蛮な国と条約の修正の話などできないということで、ことごとく失敗に終わり、岩倉使節団は1度帰国して、伊藤博文達とこのことについて話し合い、明治6年に完全に禁教令を解きました。

次回に詳しくお話しますが、明治維新の時、このキリシタン弾圧について、イギリスのパークスとの交渉をしたのが、大隈重信です。
この旅で、佐賀県にも行き、大隈重信生家と記念館に行ってきたお話をしたいと思います。
写真は、大浦天主堂や枯松神社、原城跡・黒崎教会等です。

2019年2月11日 (月)

【大磯今昔・澤田美喜記念館1】(Vol.178)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.10】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回は、今新聞やテレビ報道で話題の大磯駅前に有ります、澤田美喜記念館に収蔵されていた「キリシタン信仰画」が、16世紀末の安土桃山期の作品である可能性が高いことが解りました。
当時の信仰画は残っているものがごくわずかで、国内に信者が増えた時期の信仰の姿を伝える貴重な資料とみられます。

記念館によると、和紙に墨で描かれた巻物で、縦22センチ、横約320センチ。
「受胎告知」や、「受難」「聖母の戴冠」など15の場面があります。
ラテン語の祈りの言葉も仮名で書かれています。
記念館と共同調査をした横浜歴史博物館によると、文字の書体や描かれた風俗には、江戸時代より前の特徴があるといいます。記念館が外部の研究機関に放射線炭素を用いた年代測定を依頼したところ1556~1633年に作られた紙との結果が出ました。

皆様は、澤田美喜がエリザベス・サンダースホームの設立者ということは、ご存知の方が多いと思います。
昭和23年に当時戦勝国の男性と、敗戦国の女性の間にできた子ども達を育英された素晴らしい方です。

211_1vol1781その設立より以前の昭和11年から、隠れキリシタンの収集家でした。
何故かというと、この弾圧の時期に信仰をかえず守り続けた人達の事を後世に伝えたいという強い意志が有ったからです。
その収集物が現在は872点、季節やテーマをかえて三分の一ずつ公開されています。

あこは月に10日ほど記念館の館内のご案内をしています。
現在はこの事や、6月に長崎や天草が世界遺産登録をされたことで、沢山の方がご来館して頂いています。

先週私も長崎や島原に行って来ましたが、明治150年にもつながる多くの歴史をこの目で確認してきました。
そんなお話も語ります。
そして記念館での発見はこれだけにとどまらないと思います。

(※この記事は昨年12月時点の記事ですので、ご注意ください!)

211_1vol1782今回、横浜歴史博物館でのコラボで、いくつかの理由が有りますが、320センチある巻物を展示するスペースが残念なことに、記念館には有りません。
本物を見て頂くには1月14日までに、横浜歴史博物館で見て下さい。

それ以外にも展示が有りますが、それは記念館に戻ってきますので、是非ご来館ください。
そして澤田美喜は、岩崎弥太郎の孫にあたり、記念館やエリザベス・サンダースホームがあるあの地は、2代目の弥之助がお母様の美和さんの為の養生所を建てるべく明治20年代に別荘地を購入しました。その後美喜の父である3代目・久弥が相続しました。

記念館に通じる鐘が下がっている塔は関東大震災で倒壊した建物の廃材で出来ています。
その下には、キリシタン灯籠が有り、記念館までの階段は26本の十字架をかたどった鉄柱です。
横浜歴史博物館へは、横浜駅から地下鉄で「ブルーライン」に乗り「センター北」で降りて下さい。
写真は記念館周辺の写真です。では次回。

2019年2月10日 (日)

【大磯今昔・セシール・メンデルソン婦人】(Vol.177)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.03】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
前回の投稿で、「大磯今昔」のあこちゃんは、年内を以てしばらくお休みをいただきますと、お知らせしましたところ、何件かの年内語ってほしい方のリクエストが有りました。できうる限りお答えします。

その第1弾として「セシール・メンデルソン婦人」を語ります。
ただ2年ほど前に、澤田美喜を語りました時に、ご案内はしています。
「大磯今昔」はスタートしてから約4年、当初からの読者の方はまだ少なかったと思います。

では早速、セシール・メンデルソンとは誰?と思っている方は多いのではないでしょうか?
明治5年9月に、東京から横浜まで、鉄道が引かれました。反対が多かった中、大隈重信が世界状況を鑑みて少しでも早く鉄道を引くことを提案し、伊藤博文らと進めました。
鉄道に関してはイギリスをもとにして作られました。
その時に、イギリスから来た鉄道技師の、ダンカン・グレーを父に、母は信州・伊那の豪農の娘、福沢?の間にできた、人前による国際結婚をした方の一人娘が、セシール・ダンカン(日本名・福沢せい)後に結婚して、セシール・メンデルソンになります。
その方の事は、獅子文六の小説で「アンデルさんの記」に描かれています。
リクエストされた方は、澤田美喜が設立した「エリザベス・サンダースホーム」との関わりがお知りになりたいんですね。

彼女は、明治25年療養の為に、当時照が崎海岸に作られた現代でいうリゾートホテル「祷龍館」に約1年近く療養をしていました。
18歳の時です。
明治39年に貿易商であるメンデルソンと結婚、大磯に別荘を構えます。
旧西園寺公望邸から、現在は大磯松韻と呼ばれている高級住宅地(前・4代目清水満之助別邸跡)の間約3千坪の別荘地を収得、米寿のお祝いを城山公園の中に有りました如庵で開かれたとか?
そんな中、約13年間もの間、エリザベス・サンダースホームにボランティアとして手弁当を持ち、ホームの子供たちのお世話をした方です。
彼女が語るには、「自分は両親から望まれて生まれたけど、この子たちはつらい思いで過ごしている、何とか愛情を注ぎたい」と、しかし、愛情の注ぎ方が澤田美喜とは違っていました、そのことから2度とホームには来ないでほしいと断られてしまいました、それも当時の司祭から澤田からの伝言として言い渡されます。
原因は、子供達がある年齢に達すると、お金の使い方を教えるために買い物に子供達を連れていった時の事です、1人の子供が今でいう万引きをしてしまいます。澤田がとった行動は、警官に来てもらい、その子を警官の前に連れていきました。悪いことをするとどうなるか、澤田は徹底的に教えたかった。ホームを卒業してからの事を思うと、澤田は厳しくすることで世の中のルールを教えたかったのです。

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でも、メンデルソンは優しいおばあちゃんでした、お金が足りないと言えば渡してしまう、そんな優しさが一杯のおばあちゃんだった。それを知った時澤田は言ってはいけない一言を、「あなたは子どもを育てたことがないから」確かに、メンデルソンには子供がいませんでした。子供は優しさだけでは、いけない事を、澤田は憎まれ役もやりながら子供の成長を見届ける責任が有る事を、彼女に伝えたかったのだと思います。
そんなことが、実名で書かれたのが、「アンデルさんの記」です。
是非続きをお読みください。
 

2019年2月 9日 (土)

【大磯今昔・宰相の総括5】(Vol.176)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.11.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回で総括は最終回です。
山縣有朋を語ります。

山縣有朋は天保9年(1838)の生まれで、維新の功労者であり、陸軍の創設者、日清・日露の功労者で元帥・第3代・9代の総理大臣、及び元老として軍部・政界に絶大な権力をふるいました。

20歳の時に松下村塾に学び、尊王攘夷の考えを持つようになります。
高杉晋作率いる奇兵隊に入り、軍監となり第二次長州征伐の幕府軍とたたかい大いに手柄を立てます。

王政復古に続く戊辰戦争が終わった明治2年、山縣は兵制の調査・研究にヨーロッパ視察に出かけ、この結果「各藩のバラバラな兵制では、統一国家は出来ない」と明治政府に進言、山縣の意見を取り入れ、明治6年(1873)徴兵令を出しました。
その時、協力を求められたのが、わが大磯に始めて海水浴場を開設した松本順が初代・軍医総監として参加しました。
この徴兵の軍隊が認められたのが、西南戦争でした。西南戦争の翌年、政界の実力者・大久保利通が暗殺され、〝維新の三傑と言われた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が亡くなり、政治の実権は伊藤・山縣らに移っていきました。しかしまだこの頃は陸軍の山縣では有りましたが、政治家としての山縣にはなっていませんでした。

明治18年、日本で最初の内閣が出来た時、山縣は内務大臣になり、明治22年に第3代総理大臣になります。又、彼は普請道楽でも有名でしたが、その中でも、「椿山荘」「無鄰菴」「古稀庵」は有名ですが、わが町大磯では明治20年から古稀を迎える明治40年まで、現在は大磯中学校が有ります地に、第5代軍医総監・橋本綱常に足関節炎の治療に、大磯の地を勧められ、長きにわたり住まわれました。

今回、明治150年記念大磯庭園の公開で、ガイドツアーに参加したところ、陸奥邸の邸宅の中に、飾られている写真にハンモックに寝る山縣と、側に陸奥宗光が家族でしょうか?何人かの人と過ごしている写真が有りました。
そんなのどかに過ごしている大磯は、当時は多くの政治家や、文化人が過ごした政治の奥座敷としての役割を果たした町だったのです。

今回を以て、8人の宰相の総括は終了です。
約4年間1度もお休みをしませんでしたが、「大磯今昔」のあこちゃんの全体の総括をさせて頂き、少しお休みをいただこうと思います。
何方か、語ってほしい方がいらしたら、今月挑戦してみます。
大磯に住まわれていた方であれば、リクエストください、お待ちしています。
ただし、年内いっぱいです。
明日から2~3日世界遺産登録後の、長崎・島原を訪ねます。
澤田美喜の事も少し確認してきます。
写真は、現在の大磯中学校・栃木県矢板にある古稀庵です。

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2019年2月 8日 (金)

【大磯今昔・宰相の総括4】(Vol.175)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.11.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
総括第4弾、原敬の続きです。

大磯では、あまり彼の存在感は少ないのですが、歴代の総理大臣を務められた方達からも認められ、新聞(平成2年の日本経済新聞)歴代政治家10傑の第1位原敬。
雑誌(平成12年・月刊現代)「20世紀最高の内閣」の総理大臣・原敬と。
吉田茂も、「人間吉田茂」の中で語っていますが、「原敬日記を読んだのですが、~中略~伊藤巳代治や山縣有朋などうるさ型がいてさぞやりにくかったろうなと思うが、原さんはその間をぬってよく仕事をやられた、えらいと思います。」などと語っています。

原は、明治29年6月に大磯・南下町に別荘地を年5円で借り受けたのは、恩人である陸奥宗光の体調が悪くなったことが要因です。
いつでも陸奥に会いに行けるようにと借り受けました。
建物は、簡素な木造2階建ての和館です。
当時は西湘バイパスが有りませんから、とてもよく海が見えたと思います。
しかし残念なことに、陸奥が翌年8月に亡くなってからは、大磯の別荘はそれほど活用しなくなりました。

原が、本格的政党内閣を組織したと言われる所以は、陸・海軍大臣と外務大臣以外は、すべて政友会の党員から大臣を選び、日本で初めての本格的な政党内閣を実現しました。

藩閥や軍部とはまったく関係なく爵位を持たない平民出身原首相の登場に、人々は彼を平民宰相と呼び、大変な期待を持って迎えました。この期待の中、教育の改善、交通・通信機関の整備、国防の充実、産業・貿易の奨励の、四大政策を掲げてスタートしましたが、実際は、国民が期待するほどの成果はあがりませんでしたが、絶対多数をほこる政友会を背景に思う存分な政治を行いました。ただ国民の心とは少しずつずれが出始めていた、そんなさ中、大正10年(1921)11月4日、一青年の凶刃に倒れ、66年の波乱な人生を閉じました。

彼が書いた「原敬日記」は20歳の時から、暗殺される当日の朝まで書かれ、吉田も総理大臣心得として読むように、後の人達に伝えています。次回は、山縣です。
写真は、盛岡の菩提寺です。

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2019年2月 5日 (火)

【大磯今昔・宰相の総括3】(Vol.174)

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【18.11.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回は「8人の宰相」総括第3弾、加藤高明・原敬です。
今回は、奇しくも理由は違えど、総理現役で亡くなられたお2人です。

加藤高明は、第24代総理大臣で、大正15年1月28日総理在任中に風邪がもとで67歳で亡くなられました。
原敬は、第19代総理大臣で、大正10年11月4日、総理在任中に刺客により65歳で亡くなられました。
このお2人について今回は総括します。

加藤高明は、安政7年(1860)尾張藩士服部重文の次男として生まれました。
明治14年(1881)東京大学法学部の第1回卒業でそれも首席で卒業、法学士の学位も取得しました。

東京大学卒業後、三菱に入社、イギリスに渡り、帰国後三菱本社副支配人の地位につき、岩崎弥太郎の長女(春路)と明治19年結婚、この翌年より官界入りしますが、政敵からは「三菱の大番頭」と皮肉られることになります。
明治20年から、財界・官界・政界に転じ大隈重信外相の秘書官兼政務官や駐英公使(この時吉田茂も関わります)を歴任していきます。その後法学部卒業ということも有り、色々な法律改正をしていきます。

大磯には、明治35年松本順(大磯に始めて海水浴場を開設した方)の別荘を買い取り大磯に住むきっかけになりました。
明治40年赤星鉄馬・三井陽之助ら16名と大磯町の道路改修の指定寄付をして町道の整備を図り、その大磯の庭園は高田保公園近くまで有りました。庭園には、英国から取り寄せた見事なバラ園を作り、又、庭園の一部で蜜柑を作り、紀元節(今の2月11日)に大磯小学校児童に蜜柑を下さいました。

彼の功績は、治安維持法・普通選挙法・日英同盟の成立に努力しました。現役で亡くなられた最初の首相でした。(病気で亡くなられたということです)

02053vol174原敬は、安政3年(1856)盛岡藩士原直治の次男として生まれました。
盛岡藩の家老を務めるエリート一家でしたが、敬が9歳の時父が亡くなり苦しい生活を強いられるようになりました。1868年に起こった戊辰戦争で盛岡藩は旧幕府軍として戦い、敗れました。

天皇への反逆者というレッテルを貼られ、辛い幼少時代を過ごします。
この時、官軍となった長州・薩摩の兵が盛岡に乗り込んできて、薩長の者たちから東北の地を「白河以北一山百文」とあざけられます。
東北の玄関口にあたる白河は、北は山ひとつでも100文くらい(当時の蕎麦60杯程度の値段)の価値しかないと言われ、薩長から受けた屈辱を忘れない為に、自分に「一山」という号名を付けました。原が大磯に別荘を構えたのは、政治の世界に引き上げてくれた大恩ある陸奥宗光が住んでいたからです。

今回はここまで、次回に続けます。
写真は、原関係のものです。

2019年2月 4日 (月)

【大磯今昔・宰相の総括2】(Vol.173)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.11.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
前回は、伊藤博文、大隈重信のまとめを語りましたので、今回は西園寺公望、寺内正毅を語ります。

西園寺公望は、明治32年に伊藤公の「滄浪閣」の隣に「隣荘」を構えました。
西園寺は、第12代と第14代の総理大臣を務め、第11代、第13代、第15代を桂太郎が務め、この時代を「桂園時代」と言いました。

西園寺は、明治3年から約9年フランスはパリ・ソルボンヌ大学に留学し、法学士の資格修得し、下宿暮らしの時に、後にフランスの首相になったクレマンソーと出会い、その事がパリ講和会議で、旧友クレマンソーとの友情のもと、会議での功績が認められ大正9年に71歳で公爵を授爵し、元老の地位につきました。

公家出身ですが、自由主義を学び日本の近代化に貢献し、最後の元老として、日本の政治を見守りました。 
大磯では、伊藤公と同じく大磯の為に色々尽くされました。
特に明治42年伊藤公がハルピンで亡くなられた後は、伊藤公が行っていた大磯小学校の子供の入学祝に10銭を郵便通帳に入れ、贈りました。

約10年続けられた後、大正6年に静岡県興津に「坐漁莊」を建て引っ越しました。
興津の現在の建物はレプリカで、本物は明治村に有ります。
そのレプリカである興津の建物の2階の床の間の床脇は、黒松の1枚板(大磯町諏訪神社樹齢400年の黒松が枯れて一部を使用~別名プリンス諏訪の松で、大磯3大松の一つです)で、本当に素晴らしいもので、是非見に行って下さい。
現在の場所にある建物は、池田成彬邸で、神奈川建物100選に選ばれてます。
今後、大磯庭園として公開されたらうれしいですね。

引き続き、寺内正毅を語ります。
寺内が東小磯宮の上の土地を取得したのは、大正の初めでした。
現在もご子孫が住まわれています。
寺内は、山口藩士宇多田正輔の三男として嘉永5年(1852)に生まれました。
この宇多田家は皆様も聞いたことが有りませんか、そうあの歌姫宇多田ヒカルは曾姪孫にあたり、後に母方の姓を名乗り、寺内正毅になりました。

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明治・大正時代の軍人・元帥・朝鮮総督・第18代総理大臣になられた方です。
大正5年に大隈内閣総辞職後、政友会を与党とする超然内閣を組閣します。
長州閥の巨頭で山縣元老・桂元老と共に三巨頭に数えられました。
超然内閣とは~明治憲法下に政党政治を否認し、官僚・藩閥により組織された内閣の事です。
当時日本は中国における、山東の旧ドイツ権利継承・南満州内蒙古の権益、等々日中合弁事業などの権益の拡大を計っていました。結果、日本軍はシベリア出兵が続き27億円の債権国になってしまい、内閣批判が高まり、総辞職しました。

大磯では、大磯小学校に国旗の額を寄贈され、子供達に愛国の精神を説かれたり、又、未亡人は同邸の貴重な新羅の土器十種を大磯小学校に寄贈されました。

長男である寺内寿一は陸軍元帥として太平洋戦争の犠牲となり、シンガポール抑留中に病に倒れ亡くなりました。親子での陸軍元帥は皇室を除いては初めてです。
お2人の総括はこの辺で終わります。写真は現在付近の、建物の写真です。

2019年2月 2日 (土)

【大磯今昔・宰相の総括1】(Vol.172)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【18.10.29】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回は、8人の宰相の総括です。
少々失礼な言い方ですが、まとめてみます。

現在「明治記念大磯邸園・明治150年記念公開」で10月23日(火)王政復古の日~12月24日(月)まで、9:00~16:30・休園日は水曜日です。
建屋公開は、ご予約をして下さい。
今はまだ、空きが有りますので、是非お足をお運びください。(注:すでに終了している事業です。)

旧伊藤博文邸(滄浪閣)は、お庭から外観のみ公開です。(ガイドツアーでの観覧です)伊藤は、初代総理大臣で、大日本帝国憲法を起草し立憲政治の大きな役割を果たしました。

大磯には、明治29年「滄浪閣」を創建、翌年に住民票を東京より移し、本宅としました。
明治42年ハルピンで亡くなるまでの、12年間大磯に暮らし、町民たちへの慈愛ある思いで、貢献してくださいました。

02021vol1721特に、子供達には小学校の入学祝に10銭を郵便通帳に入れ贈られました。
高学年になると、滄浪閣に招き明治天皇から下賜された、襖絵をお見せになりました。
(大隈邸にて公開、こちらもガイドツアーのみ観覧できます。)大磯町指定有形文化財です。

大隈重信は、日本初の政党内閣を組閣し早稲田大学を創設しました。
明治22年に極秘である条約草案が流出し、外国人判事を大審院に置くという内容への非難が巻き起こり爆弾テロで右足を失う重傷を負い外相を辞任、ところが大隈の凄いところはその事を起こした若者を責める処か、「片足がなくなったから、その分頭の方に血が行き、少しは血の巡りが良くなるだろう」と事件を起こした来島恒喜には寛大で思いやりが深かった。(来島はその場で自決)来島の追悼法会毎に香料をおくり続けました。
だがこの後約30年近く義足での暮らしが続きますが、それは痛く辛い日々だったと、当時の闘病日記を手に入れることができ、始めて大隈の凄さを感じ涙しました。
来客が趣味とか(多い時には1年間に約2万2千人とか?)、どんなに痛く辛くとも、笑顔を絶やさず、怒りや苛立ちから大きな声を出すこともなく、本当にすごい人だと思いました。お風呂が好きとか?そうゆうことではなく、歩けば歩くほど、腿と義足がすれ、入浴は血液を万遍なく全身に流通させるためであり、健康は入浴に負う事が多かったという。でもその初期処置が早く素晴らしかったから一命をとりとめたと書かれています。

その処置をしたのが、海軍軍医総監高木兼寛(大磯に別邸有り)でした。その後、当時の最高の医学者(エルウィン・ホォン・ベルツ)によって切断手術が行われました。

それを踏まえて大磯の邸宅を見ますと、考え深いものが有ります。
現邸宅は、明治30年に別邸として建築され、この元勲通りの邸宅で、唯一関東大震災で倒壊を免れました。

貴重な神代杉をふんだんに用いた「神代の間」や社交家の大隈がよく宴を開いたといわれている「富士の間」がご覧になれます。邸宅内部は、ガイドツアーのみの観覧になります。
お風呂は、庭に五右衛門風呂が置いてありますが、何故かのご案内も、ガイドツアーに参加して確認して下さい。

02021vol1722

今回は彼の肉声を聞くこともできます、是非この機会に御来磯して、明治の時代を偲んでください。大磯町観光協会も皆様の事を歓迎します。今回は、お2人でしたが次回は、西園寺公望、加藤高明、寺内正毅と続けたいと思います。
写真は滄浪閣の石碑や、大隈邸の玄関、お庭の写真です。五右衛門風呂他。

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西湘を拠点にして色々なプロジェクトを立ち上げて奮闘しています。そして私も遊ばされています。

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