大磯今昔

2018年1月20日 (土)

【大磯今昔・岩崎久弥1】(Vol.22)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【15.11.30】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、3代目岩崎久弥氏について、お話します。(敬称略)

久弥は、岩崎弥太郎・喜勢の長男として、慶応元年(1865)に生まれます。
明治24年、米国に留学し、帰国後三菱社に副社長として入社します。
明治26年、29歳の若さで社長を叔父の弥之助から引き継ぎます。

久弥は、弥之助が進めた事業の多角化を確実に拡大すると同時に、弥太郎以来のワンマン・カンパニー的、経営体質から、合資会社を事業部体制にし、権限の移譲する近代的マネージメント・システムへの脱皮を計りました。

久弥は、家族と生活を大切にし、謹厳そのものの生涯でした。
娘の美喜(エリザベスサンダース・ホーム、設立者)が、こんな事を語っています。

美喜は、毎日寝物語でご先祖さまや父の話を祖母(弥太郎の妻)から聞かされます。
その話の中で、父の素行がすごく野暮なほど堅かった話で、その頃の大事業家は遊びにもきわめて、派手な方々が多く、大倉、三井、住友をはじめ、6~7名の当主の方が、その時代の10万円を某銀行に積み立てて、新橋、赤坂、柳橋の芸者さんたちに、父の手の付いた妓にこれを与えるという「10万円の懸賞」をかけたそうです。

その結果は如何に~?
次回に続く。
写真は、エリザベスサンダース・ホーム、の中庭に唯一、離れだった一部が残っています。その建物です。

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2018年1月16日 (火)

【大磯今昔・岩崎弥之助2】(Vol.21)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.11.23】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回は、岩崎弥之助氏について語りましたが、三菱の事業の多角化を図り、基礎を築いた2代目でした。
1893年、弥之助は三菱の事業を会社形式に整えて、合資会社を設立し、弥太郎の長男である岩崎久弥に社長を譲りました。

その後、4代目日銀総裁に就任したが、公定歩合で政府と対立し、病気を理由に辞任。
そして、晩年体調を崩し、大磯や箱根の別荘(現・ホテル吉池)で、静養する事が多くなったと言います。
(因みに奥様は、後藤象二郎の娘)

弥之助も、残念な事に明治41年57歳の若さで亡くなりました。

久弥は経営を引き継ぐと共に、大磯の別荘も明治43年久弥が相続しました。
では、大磯の別荘について少しお話させて下さい。

大磯駅前に、現在2か所のご門が有りますが、左側が明治23年頃の当時のままの御門です。
看板は、澤田美喜記念館と有ります。
右側の御門には、エリザベスサンダース・ホーム、と、聖ステパノ学園の看板が掛けて有ります。

中に入りますと、右に陽和洞というトンネルが有りますが、エリザベスサンダース・ホーム、が設立された当時(昭和23年)この入り口と出口を、天国と地獄を繋ぐトンネルの様に言われた事が有りますが(後に、澤田美喜さんの時に語ります)、愛宕山を切り抜き抜けた所から相模湾の海を一望にした作りになってます。今は、海の見えるホールが建ち、当時を偲べます。そんな所に、別荘が建っていました。(敬称略)

次回へ続く。
写真は、ご門と陽和洞と箱根のホテル吉池

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2018年1月15日 (月)

【大磯今昔・岩崎弥之助1】(Vol.20)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.11.16】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。 
 
前回は、三菱の始祖岩崎弥太郎でしたが、51歳という若さで亡くなりました。
そして2代目を継いだのは、17歳年下の弟、弥之助です。
(2代目というと?そんな言葉を払拭するような働きをしていきます)

0115_2時代はどんどん変わり、三菱を支援していた大久保利通が暗殺され、大隈重信が「明治の政変」で失脚、三菱へのバッシングが強まり、海運業主体にしていた三菱に対抗して共同運輸会社を設立し、三菱と熾烈な値下げ合戦を行いました。
共倒れを危惧し1885年に合併し、日本郵船会社(現・日本郵船)を設立しました。

それまで三菱の中核事業は海運でしたが、日本郵船会社が設立された以後、海運業から手を引きますが、元々は海運業が主体でしたので起点として、造船業、当時は船舶燃料は石炭でしたので(今まさに、朝ドラの「あさが来た」を見て頂くと時代を彷彿させます)、鉱山経営に進出、高島炭鉱を買収します。
これがのちの三菱鉱業(現・三菱マテリアル)、さらに石油販売、石炭化学、石油化学と事業を多角化していきました。

三菱といえば、丸の内界隈に本社ビルが林立し、通称「三菱村」と呼ばれるビジネス街の基礎を作ったのも弥之助です。
当時、丸の内は藪たたみの荒れ地だったので、こんな広い場所を買ってどうするんだと?

明治23年、大磯駅前もそんな感じだと思いますが約32000坪の土地を、母堂美和の為に購入しています。
この先見の明は凄いものだと思います。次回に続く。

写真は、先日行って来ました、三菱1号館と、大磯駅前に現在もご門は残っています。

2018年1月 9日 (火)

【大磯今昔・岩崎弥太郎2】(Vol.19)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.11.09】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回、岩崎弥太郎(敬称略で、ごめんなさい)が海運業に乗り出したお話をしましたが、早速続けます。

明治7年の佐賀の乱に三菱は、台湾出兵に際して軍事輸送を全面的に引き受けることに成ります。
最初、三菱の中核事業となる造船業は、海運業に付随する船舶修理を起源としていました。
そして、当時「台湾出兵」は半官半民で、「日本国郵便蒸気船会社」は、消極的だったことから時の権力者、大久保利通、大隈重信を激怒させました。

当時、長崎には幕府が設立した造船所が有りましたが、明治政府は民間に払い下げる事を、決定します。
政府は、官有船の使用を三菱に認可すると同時に「郵便蒸気船会社」を解散させ、1884年(明治17年)、長崎造船所は三菱に貸与され、1887年(明治20年)払い下げられました。(現在、三菱重工業長崎造船所)

そして、弥太郎はこの激動の時期に残念だったと思います、1885年(明治18年)に、胃がんで51歳の若さで無くなります。
1887年は、奇しくも弥太郎3回忌の年でした。

0110_2次回から語ります、2代目弥之助は船舶修理中心だった長崎造船所に、積極的な設備投資を行い、世界的な水準を誇る造船所に成長させました。

この頃に、大磯の駅前に別荘を構えます。
昨日、皆様は大河ドラマ「花燃ゆる」をご覧になりましたか?
あの西南戦争(明治10年)でも、軍事輸送を全面的に引き受け、後の三菱財閥の発展の財政的基盤を築いていきました。

追記~三菱のマークについて一言。
三菱印は岩崎家本来の紋章である「三階菱」を岩崎弥太郎が人字形の「三菱」に変形したもので、のちに三菱事業の発展とともに世界の隅々まで、スリー・ダイヤモンドとして広く知れ渡るようになりましたが一説には、このマークは藩主山内家の紋章である「三つ柏」の形にヒントを得たものであると、「三菱銀行史100年」に載っています。
~因みにあこちゃんの旦那様は三菱銀行員でした。

(左の)写真は、今年長崎の軍艦島に行く途中に三菱長崎造船所の写真を撮りましたが雨が降っておりあまり鮮明ではありません、お許しください。

2018年1月 5日 (金)

【大磯今昔・岩崎弥太郎1】(Vol.18)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.11.02】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回からの続き、岩崎家初代総師、岩崎弥太郎について語ります。
もう4~5年前(※注 掲載時は3年ほど前)になりますが、大河ドラマの「龍馬伝」が放映されていました

があのドラマは、岩崎弥太郎から見た「龍馬」を語ったドラマだと言われています。

土佐の地下浪人弥次郎と美和の長男として生まれますが、あのドラマの冒頭、本当に汚く表現されていましたが、昨年12月に彼の生家を訪ねましたが、この貧しい暮らしから彼の中に不屈の精神が刻まれたのだと思いました。

武士に成りたかったが、貧しさゆえに中々思うようにいかず、有る事から、父の濡れ衣を晴らすべき行動が、逆に獄に入れられた時にも、ただでは起きませんでした。
獄中の仲間からそろばんを学び、商売への興味が目覚め、それがきっかけで、後に藩の有力者である吉田東洋に認められ、その甥、後藤象二郎(この方も大磯に別莊を構えます)に、慶応3年、藩の商務組織・土佐商会の長崎留守居役に抜擢されます。

弥太郎は、長崎で藩の貿易を全て管理才覚を発揮していきます。
この時に、坂本龍馬達に出会います。
そして、長崎閉鎖後大阪に移り、事実上の責任者になります。

明治3年、大阪商会を「九十九商会」(つくも)と改名。
廃藩置県により、明治5年「九十九商会」は、当時の幹部だった3人の名前(川田小一郎、石川七財、中川亀三郎)の姓に因んで、「三川商会」と改称、経営を存続させました。

そして明治6年、弥太郎が責任者になり「三菱商会」と改名、本格的に海運業に乗り出します。
次回へ続く。

180105写真、ごめんなさい、前回間違えました。
生家の前は立て看板でした。
今回銅像と、生家の写真を掲載します。
自分で撮った現地写真を載せるように、心掛けてます。

2017年10月16日 (月)

【大磯今昔・岩崎弥之助1】(Vol.17)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.10.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今週から、またまた大変なシリーズが始まります。
お見逃しなく、しっかりあこちゃんに付いて来て下さいね。

1016_1今週から、大磯駅前(現在は、エリザベスサンダース・ホーム、 聖ステパノ学園)に明治23年頃、駅周辺(簾田、坂田山付け、他を含め)約32000坪を、母美和の養生所として2代目岩崎弥之助が購入しました。

三菱財閥の2代目岩崎弥之助、その土地を相続しました、3代目岩崎久弥を語りたいと思います。
でも、三菱の始祖で有ります岩崎弥太郎を抜きにして、2代目~3代目を語る事は出来ません。

何故かと言うと、三菱財閥は「血の三菱」、「組織の三菱」と言われ、初代弥太郎、2代目は弟の弥之助、3代目は弥太郎の長男 久弥、4代目は弥之助の長男小弥太、まさに血族そのものです。
そして、4代目小弥太の時に財閥解体を迎えるという、劇的な終焉を岩崎家は迎えます、そしてその後、現在まで存続しています。

エリザベスサンダース・ホーム、、聖ステパノ学園の創設者は岩崎弥太郎の孫、澤田美喜で有る事。
今回は、始祖で有ります岩崎弥太郎のお話を少しさせて頂き、本格的に次回へ続けたいと思います。

岩崎弥太郎は、1834年、高知県は宿毛というところに生まれ、土佐藩の最下層に位置する武士の出身から、財閥へと上り詰めていきます。
では、次回へ続く。

写真は、今年の春訪ねました、土佐の岩崎家生家近くに有りました銅像、生家の庭に日本地図を表し、生涯を夢見ていた。
現在駅前に残ってます、当時の御門です。

2017年10月 9日 (月)

【大磯今昔・池田成彬2】(Vol.16)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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1009【15.10.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
池田成彬(しげあき)氏は、三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女・艶と結婚します。
この時代の人達は、財界、政界、そのパイプに実力者の娘との結婚が多い時代でしたね。
池田氏もそうでしたが大磯に住まわれていた方で、24代、25代の総理大臣になられた、加藤高明氏は岩崎弥太郎の長女、春路と結婚、この事については別の機会に語りますね。

前回で、文化村(池田農園)のお話をしますと、お約束しましたが、大正8年に東小磯348番地外に池田農園を作り、文化村と呼ばれました。
財界の激しい日々に動中に静を求め、のどかな時を過ごされたようです。

池田農園設立の事務一切を前山久吉(王子製紙、東京信託、日本製粉会長)に依頼しました。
大正13年頃、長男成功(しげかつ)が引き継ぎ、同年にイギリスで2年間メロンなどの栽培を学び、五島八左衛門を主任に迎え、1000坪の農園を作りました。

この地は、マスクメロンの日本最初の産地になります。大磯初めて物語が又、増えました。

昭和2年に、(株)池田農園を設立し、我が国の園芸界のリーダーとして、種苗の生産、種子の改良に尽くし、昭和9年に茅ケ崎に分園をもち、300坪の温室にはカーネーション、フリージャ、マンゴー、洋ナシ、シクラメン、ガーベラ、洋ラン、が有り「パヒオぺディラム・ツヤイケダ(コイソ)」、大磯の地名を付けた、シンピデュ―ム、お母様の名前を付けたランの品種改良をし、英、米、独の代理店を持つようになり、昭和10年に、日本園芸(株)と改めました。

又、池田氏の身辺は質素で「成彬」(せいひん)ではなく、「清貧」とも呼ばれ、政界引退後は、書画骨董を売って、生計を立てていた程であったとのことです。

昭和25年10月8日、現在建物が残っています住まいで、享年84歳で亡くなられました。

現存している建物は、昭和7年中條精一朗(ジョサイヤ・コンドル の弟子、辰野金吾の弟子)の設計。
神奈川県建物100選に選ばれていて、町としての公開が待たれる建物だと思います。

*写真は、建物横からと、池田農園跡地の街並み、先週護国寺にお墓参りに行って来ました。(本当に質素でした)

2017年10月 3日 (火)

【大磯今昔・池田成彬1】(Vol.15)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.10.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、池田成彬(しげあき)氏について、語ります。

大磯、東海道の松並木を元勲通りと言いますが、その1番奥に現存し、昭和7年に建てられたとは思えない、今でもモダンな建物として、神奈川県の建物100選に選ばれています。建物については、後程お話します。

氏が、大磯町西小磯に居を構えたのは、大正6年頃です。
西園寺公望公が大磯を去り、與津の座漁莊に移られたので、その跡の屋敷を求めました。
(後に、この屋敷は東小磯に池田農園として移築しました)

彼は、慶應3年(1867)7月16日、米沢藩士池田成章の長男として生まれ、父は維新の改革により米沢藩知事に任命された人です。

氏は、明治、大正、昭和三大にわたり、財界、政界に偉大な足跡を残した方です。
明治21年に慶應義塾を卒業し、明治28年米国ハーバード大学を卒業し、三井銀行に入行、三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総師)にまでなられた方で、色々な改革をしました。

*三井系企業からの三井家同族の退陣。
*株式の公開  *社会事業への寄付  
*三井合名直系、6社に定年制を導入 等々

自らも、70歳で退職するなど、経営者に対する規律を求めた。
退職後は、近衛文麿に請われて内閣参議、大蔵大臣兼商工大臣を勤めました。

その後、西園寺公望公から首相就任の打診が有りましたが、親英米派の氏に対して、陸軍の反発で立ち消えましたが、その後、同じ自由主義者であった吉田茂とは考え方が合い、近所に住んでいたという事も有り吉田氏は、財政、人事についてしばしば池田氏に相談に来ていたそうです。

次回は⇒東小磯に池田農園(文化村)を作られたお話に続く。

1003
写真は、現存する池田邸とその入り口の写真です。
    (厳密に言いますと、現在は有る銀行の所有です)
    隣は滄浪閣です。

2017年10月 2日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文11】(Vol.14)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.10.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
とうとう伊藤公のお話も今回で終焉を迎える事になりました。

前回で、大磯小学校の子供達に入学祝に1人10銭を送られたお話をしましたが、下級生には毎年4月頃になると、各級一団となり先生に連れられて、滄浪閣を訪問し公の居室の間や床の間の鎧兜や、明治天皇陛下より御下賜の八幡太郎義家の奥州攻めの襖を見学したそうです。

1002農漁村の人達と話をしたり、未来ある子供達には、自分の家の中を惜しみなく見せたり、本当にかざりっけのない公でした。
そして、公の遺徳の片鱗に触れるにつれ、露国蔵相であり、東洋事務主管者のココフッェフとハルピンで公は東洋問題を打ち合わせる為、明治42年10月14日滄浪閣を出発しました。

この満州旅行を通じて清国、露国との国交を円滑にし更に、日清・日露の聖戦の忠魂の旅にしたかったとか?
公は旅立つ前に、嗣子博邦氏と壮行の盃を交わし公は「俺は今迄生きていたのが自分でも不思議だと思うくらいじゃ。
おぬしもわしの志を継ごうというなら、この覚悟を持って居れ」と、言い残し大磯駅から、下関~ハルピンへと旅立ちました。

一行の汽車は、同月26日午前9時ハルピン駅に着き、駅に第一歩を降りた時、突如朝鮮人安重根の拳銃の為、その場に倒れた。
午前10時出血多量の為、昇天された。
明治42年11月4日、東京日比谷公園にて、国葬の儀式が執行された、公、69歳の生涯を閉じた。

戒名   「文忠院殿博誉古林春敏大居士」
墓地   東京都品川区大井
位牌   大磯大運寺
記念碑  白岩神社の境内に藤公碑有り

偲んでも、偲んでも、偲べないほどの思いを大磯の人々に残されました。
今、元勲通りとして、皆様に大磯の町をご案内できるのも、公のお蔭だと思います。合掌。

写真は、大磯小学校の現在。
    ハルピンに旅立つ時に通られた大磯駅の貴賓口
    品川の伊藤公の墓地
    大磯白岩神社の藤公碑。

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2017年9月28日 (木)

【大磯今昔・伊藤博文10】(Vol.13)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.09.28】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
伊藤公のお話も、次回で終焉を迎えます。

今回は、公が大磯町で町民や子供達に色々な遺徳を尽くされた事を報告します。
明治34年大磯小学校が現在地に新築されるに当たり、時の町長宮代謙吉氏は、伊藤公にご相談した処、寄附芳名簿の筆頭に金5百円也(現在の約1万倍ぐらいでしょうか?)を記入されました。

それから財界の巨頭の三井、三菱、更に沢山の別荘の人々の申し出で多額の建築寄付金が集まり、当時としては全国一の見事な2階建ての校舎が出来ました。

でも残念な事に、大正12年9月1日午前11時58分44秒、マグネチュード(マグニチュード)7.9の烈震、関東大震災で校舎は全壊してしまいました。

明治37年5月からは、小学校児童に1人10銭を郵便貯金通帳に入れ入学祝と貯蓄心を薦める意味で、お手元金から各人に下さった。
この事は、公が世を去った後も西園寺公望公、有村国太郎さんや他の有志の皆様が公の遺徳を引き継ぎその後10年以上続きました
(当時、お米1升の値段は13銭ぐらいです)。

明治38年12月、韓国統監になられた公に感謝の意を込め、町民総意で、大磯駅から滄浪閣までの道が非常に狭少であったので、お金のある人はお金を出し、土地のある人は土地を出し、お金も土地もない人は共に汗を流しこの、統監道を作りました。
巾3,8M。長さ528M、沿道には梅と桜が交互に植えられた。

そして、邸内の松林の中明治の元勲、岩倉具視、大久保利通、三条實美、木戸孝允の四賢人を祀り、国家安泰を常に祈っていました。後に、公自身と、西園寺公望公、吉田茂の3名も祀られ、先週の21日から23日まで、一般公開されました。(現在は吉田邸の中腹に七賢堂として祀られています。)

次回は、ハルピンでの悲しいお知らせです。

写真は、その時の公開の写真です。

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