大磯今昔

2018年5月28日 (月)

【大磯今昔・佐々木信綱】(Vol.80)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。
【17.01.02】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
新年あけましておめでとうございます。
1日~3日までは、大磯町はイベントや初日の出、箱根駅伝、六所神社の1年に1回の御神像の公開や、投稿する内容が一杯なので、「大磯今昔」のあこちゃん、としては休稿しようか迷いましたが、熱があってもお休みしなかったので、このまま皆勤で頑張ってみます。

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今回は、佐々木信綱(佐佐木信綱~中国を訪問した時にこのように掲載されてから、こちらの形を取る事にした)です。(敬称略)
佐佐木信綱,明治5年(1872)6月3日生~昭和38年(1963)12月2日、歿91歳
三重県鈴鹿市生まれ。東京大学文学部古典科卒業。
父弘綱の主宰する竹柏会を引き継ぎ、機関誌「心の華」を創刊。
明治32年避暑の為に大磯に来て「大磯百首」を詠みました。
昭和12年文化勲章受章、日本芸術院会員となる。
昭和26年3月鴫立庵で、大淀三千風が西行五百年忌を修してから、260年が経ったことを記念して、信綱揮毫による西行歌碑を建立した。
昭和37年には庵主(鈴木方如)以下多数の有志による信綱の歌碑を建立。
明治32年(1899)8月避暑のために大磯の地獄谷のそばに家を借りた。(現在の加山邸の側です)
今回は、このぐらいで今年も又、良い年になりますように、皆様に幸多かれと、願って「大磯今昔」のあこちゃん、今年もよろしくお願いします。
写真は、佐佐木信綱と、鴫立庵にあります、西行句碑(心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮れ)は、信綱揮毫。
明日の午後より、六所神社で神奈川県指定重要文化財 男神立像 女神立像の定点ご案内をしています。お待ちしています。

2018年5月22日 (火)

【大磯今昔・澤田美喜12】(Vol.79)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.12.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今年最後の澤田美喜になります。
 
前回からの引き続きのお話に入ります。
美喜に関わる3人の女性のお話でした。
 
パール・S・バック(小説家)で、「大地」この作品でノーベル文学賞を受賞、中国人とアメリカ人を両親に持つ混血児でした。日本と米国との懸け橋になり、ホームの子供達の里親探しのお手伝いや、日本での講演活動や本の売り上げを、ホームに寄付して下さいました。
 
2人目は、ジョセフィン・ベーカー(黒いビィーナスの異名を取り、歌手でありエンターテイナー)、アメリカでの人種差別を受けその事から、フランスに渡り、フランス国籍を取得、素晴らしい活躍で、ヨーロッパ貴族の称号を持つ初めてのアフリカ系アメリカ女性です。外交官夫人の頃の美喜とパリで出会った縁から、ホームの子供2人の里親になったり、日本での公演活動、全てをホームに寄付して下さいました。
 
3人目の方は、メンデルソン・メンデルゼン(日本名福沢せい)、両親が国際結婚第1号と言われていて、父は英国人で、明治5年日本で初めて蒸気機関車が走った当時の機関技師で、という事は彼女は混血児の最初の人?
 

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その彼女が、75歳から無報酬で毎日お弁当を持って、エリザベス・サンダース・ホームに通い、混血児を心から愛育していました。
彼女は「私も混血児だわ。あたしが自分で進んで混血になったのではないように、この不幸な子供たちも何の罪があってこの世に生まれたというのだろう。あたしは良い父と母に恵まれたけど、この子たちは父にも母にも顧みられなくて、、、」と、涙をこぼして良く世話をした。13年間の長い間続きました。
 
実は、彼女とのエピソードというか、彼女がホームを辞めるきっかけになった事件が有ります、その対応に美喜の信念を感じました。
美喜は、子供達がある年齢に達すると、お金の使い方を教えるために、今のお金で100円ぐらいだと思います、子供達に渡し文具店で、どんなものが買えるかの勉強をさせていました。
 
決して沢山の物、好きな物を買えるほどの金額では有りません。
我慢も教えたかったのです、世の中に出たら何でも手に入るわけではない事も、教えたかったのです。
ある時、子供の一人がメンドルソンに、「おばあちゃん、買い物のお金が足りないの」と訴えました。
それではと、その子にお金を渡してしまいました。事件は、その子ではなく別の子が欲しいものをポケットに入れてしまったのです。(万引きです)、でもその子にはその自覚は無かった、美喜は激しく怒りました、その結果その子をおまわりさんの前に連れて行きました。
悪いことをするとどうなるのか、彼女はそれを徹底的に教えたかった。
でも、メンデルソンはそこまでしなくてもと、抗議しました、その翌日からホームに来ることを差し止められました。
子供のために何をなすべきか、とても、厳しい美喜でした。
(この事は、獅子文六書、アンデルソンに記に掲載されてます。)では、又来年もよろしくお願いします。
美喜の写真と大磯町名誉町民の称号写真、当時のホームの写真、今回で澤田美喜さんを終了します。

2018年5月18日 (金)

【大磯今昔・澤田美喜11】(Vol.78)

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【16.12.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
澤田美喜さんも終盤に入ってきました。
 
ここからは、(敬称略)でいきます。
今日は、美喜と関わった3人の女性の事を書こうと思います。
彼女からすると、こっちの人よと、言われるかもしれませんが、それが、投稿者の特権ですね。
 
前回、サンダース・ホームの冠命になった、エリザベス・サンダース女史のお話もしましたが、美喜が外交官夫人として世界各国を廻った時に作られた人脈は、その後のホーム設立にどれだけ尽力をしていただい事か?
 
その第1人者が、ジョセフィーン・ベーカーです。
美喜と出会ったのは昭和の10年頃のパリです。
その頃から彼女は貧しく苦しんでる人に手を差し伸べる素晴らしい人でした。しかし、アメリカは黒人に対する人種差別の激しい時代で、パリで成功をおさめ、アメリカに凱旋公演するはずが、就いた港からホテルに至るまで彼女を人と扱う事はしなかった。
それを目の当たりにした美喜は、怒りが抑えきれず怒鳴りかけたその時、彼女は叫びました「貴方達のその白い皮膚の下には黒い心がある。そして、私の黒い皮膚の下にはまっ白い心がある。」後に、美喜が書いた本のタイトルになりました。
その時に、美喜が彼女にした好意に対して、彼女は報いるかのように、日本で行われる舞台公演の収入は全てサンダースホームへ寄贈されました。
その時のお金を基にホームの子供達の宿舎が作られました、今も記念館下の階段の横に碇石が残っています。

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2人目は、作家のパールバックです。
彼女は、中国とアメリカの混血児です。
彼女との出会いは、或るホームの子供の父親への事がきっかけで、アメリカでの出会いが始まり、彼女にはホームの子供のアメリカでの受け入れ先を紹介してもらったり、日本での本の売り上げ収入や、公演での収入もホームに寄贈していただき、彼女の寄付で作られた宿舎の碇石も同じように記念館の下にあります。
 
3人目の方は、もしかしたら書かないでと思っていらっしゃる方かなあ~?
この方は、大磯に在住されて70歳過ぎてから13年間手弁当を持って、サンダース・ホームの子供達のお世話をした、メンデルソン(日本名福沢せい)です。
獅子文六も書かれています「アンデルさんの記」のモデルになった方です。
ご両親が国際結婚第1号で、人前結婚として初めての方の子供さん、混血だという事から、彼女は自分は両親から望まれて生まれたけれど、ホームの子供達は世間から冷たく扱われているその子供達に少しでも愛情を注ぎたいとボランティアでお手伝いをした方です。
紙面が長くなりました、この続きは、次回に。
写真は、記念館下の入り口正面にある、美喜顕彰碑、レリーフ、3まいめは正面左側の人がメンデルソンさんです。

2018年5月17日 (木)

【大磯今昔・澤田美喜10】(Vol.77)

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【16.12.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
澤田美喜について語ります。
 
ご縁とは不思議なもので、丁度澤田美喜を語らせて頂くこの時期に澤田美喜記念館のお手伝いに今月から週に1回、4時間ほどですが伺わせて頂いています。
 
新たな発見が有り、とても身の引き締まる思いです。
今年は特に、新聞各社(朝日新聞、東京新聞、カトリック新聞他)が、記念館の展示物「キリシタン鍔」を取り上げています。
是非、ご来館ください。
 
大磯駅前のあの敷地内には、実は3つの建物が点在しています。
エリザベス・サンダースホーム、聖ステパノ学園初等部、中等部、澤田美喜記念館。
「海の見えるホール」~聖ステパノ学園の講堂、礼拝堂(子供達、学生達が礼拝に使います)
 
エリザベス・サンダースホーム、聖ステパノ学園は美喜生存中に設立されたものです。
美喜自身が事業を推進することが大事で、名を残すことはしなかったのです。
 
エリザベス・サンダースホームの命名は、三井の養育係を約40年なさった方が1度も母国(イギリス)に戻ることなく亡くなられた、エリザベス・サンダース女史のお名前を冠に、その方のご寄付をホーム設立の祖とさせて頂いたので、この様に命名されました。
 
聖ステパノ学園はホームの子供達が就学年齢に達した時、子供達が肌の色や差別で苦しむのではと、町立の小学校ではなく、新たに小学校を設立しました。
その名前は、美喜の三男が太平洋戦争で20歳で亡くなった晃の洗礼名がステパノでした。
そしてその名前を冠にして聖ステパノ学園としました。
 
澤田美喜記念館は、美喜が亡くなった後、美喜を尊敬・崇拝する皆さんが何とか名前を残したいと、命名されました。

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今回の写真は、現在は建物としては3代目になります、エリザベス・サンダースホームの玄関です。
2枚目は、平成2年に今上天皇・美智子妃殿下が聖ステパノ学園を訪問された時のお写真です。
3枚目は、ノアの方舟をイメージして作られました、澤田美喜記念館です。
4枚目は、横浜の外人墓地に有ります、エリザベス・サンダース女史のお墓です。
毎年、エリザベス・サンダースホームの子供達はお墓参りに伺ってるそうです。

【大磯今昔・澤田美喜9】(Vol.76)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.12.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
澤田美喜について語ります。
 
今回彼女について語るについて、今迄色々な本も読みました。
関係各位の方達にもお会いしました。
全く真逆な事が書かれてる本も有りました。
何故かと、考えると美喜自身が書いた本、子供達(サンダースホームに入所していた子供達)から見た、ママちゃまを語っている本、又、働いていらした職員の方達が語った本、それを同じ目線で見ては当然違います。
 
前々回でも少しお話ししましたが、ホームにいる子供たちはここで暮らしている間は、ママちゃまをはじめ職員の方達がお世話をし、守ってくれます。
でもホームで一生過ごすわけにはいきません。
中学で巣立つもの。
高校まで行けた子供達、でももっと前に、養子に出る子供達も沢山いました。
美喜が育てた子供たちは30年間の間に、約2000人の子供達がいました。
皆が皆、幸せな人生を送れるように、美喜はどれだけ心を痛めた事か、それでも想像もしない不遇な死を遂げてしまった、その中の1人に付いて少しお話したいと思います。
 
澤田美喜記念館の初代館長をされていた、鯛茂先生からもお話をお聞きした方ですが、面高直子著「ヨシアキは戦争で生まれ戦争で死んだ」という本の主人公です。
アメリカに養子に行った、後田義明(スティーブ・ヨシアキ・フラハティ)は、ベトナム戦争で戦死された方です。

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養子先で有りますアメリカで、とても幸せな人生を送っていましたが、未だ見ぬ母への思いは立ちきれずしかし、養子先のファミリーに迷惑を掛けたくない思いから、軍隊(当時はベトナム戦争でした)に入隊する事を思い立ちます。
何故かというと、2つ有ったと思います、1つは、市民権を得る事(今迄は、アメリカ人でもなく又、日本人でもなかった)、3ヶ月軍隊を終えるとR&R(リラックス&レクリエション)で、1週間の休みがもらえ、東京へ行くことが出来るのです。
後2日でその日を迎える朝に狙撃され亡くなりました。
日本に行き実母の消息を訪ねようと入隊したのに、実母はいろいろな事情から既にアメリカで暮らしていました。彼が亡くなったことを知らされた美喜は、大粒の涙を流して床に崩れ落ちたそうです。
ホームの創設以来、どんな時も気丈に振る舞ってきた澤田が、初めて人前で見せた涙だったと、語ってます。
 
今でも、色々な人生を引きずりながら懸命に生きている方達、前に美喜さんのお墓参りに鳥取に行った時、墓守を為さっている湯浅さんという方にお会いしましたが、ホーム出身でお墓が持てない方がいたら、面倒を見て欲しいと、鯛さんに頼まれていると、湯浅さんがおっしゃっていました。(涙)
 
今回は、写真を選ぶのが難しいです。
美喜さん鳥取のお墓、その入り口の案内石碑は大磯の老舗和菓子店「新杵」の先代の御主人が書いた物です。

2018年5月14日 (月)

【大磯今昔・澤田美喜9】(Vol.76)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.11.28】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
澤田美喜のシリーズです。
 
最近のNHKの、朝ドラを見ると、当然のように時代背景から、戦前戦後の苦労話を乗り越えて、現在の名声が有るお話が多く取り上げられています。現在放映の「べっぴん」もそうですね。
 
私は、それを見るにつけ、当時の女性たちの生き方に興味を惹かれると共に、辛い時代をどう乗り越えたか、澤田美喜の目から見た当時を振り返りたいと思います。
 
美喜が書いた著書に「母と子の絆」エリザベス・サンダースホームの30年という本が有ります。
その中の1節に、

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(私は「母」について、特に世間の人々に対して話したいことがある。私の知る限りの母は、その1人1人が数回の空襲を受けていた。1回ごとに家族はバラバラになって、生死のほども解らず、食べ物も無く職もなく、あのレンガとガラスの破片に埋もれた町をさまよっていた女性達であった。~、日本人のすべてが空襲を受けたわけではなく、爆撃にも有っていない人たちもいたはずです。彼らは、この着の身着のままの女性達に対して何らの救いの手を伸ばそうとさえしなかった。
空襲を受けなかった人々は、二着以上の上衣も下着も持っていただろうし、はきものも二足以上は持っていたはずである。それでも、何一つしようとしなかった。
救いの手を伸ばしたのはアメリカの兵隊達でした。彼女らは、同胞から受けられなかったこの親切に対して、何一つ報いるべきものを持っていなかった。彼女らは、自分の体をもって報いるほかなかったのだ。これが、”第1号‘達の生まれてくる原因であったとしても、これらの母を責めたり、この子供達を白眼視する事は出来ないはずです。)
 
と、綴っています。
この文章を読むたびに、自分だったら何が出来たのだろうかと、何時も自問自答されられます。
 
写真は、第1号の子供達を預かるようになって(最初は2名でした)から、5年目ごろです。
2枚目は、設立から9年目頃です。
みんなの後ろに写っているのは、「ぼたん」という茶室です。
岩崎家の茶室ですので、城山に有った三井家の如庵に引けを取らない茶室でしたが、子供たちのミルクを温める、薪の原料になってしまいました。
3枚目は陽和洞には多くの混血孤児が捨てられました。
最後の写真は右側に写っていますのが、太平洋戦争で亡くなった、三男晃さんの写真です。
(聖ステパノ学園の元になった方です~彼の洗礼名がステパノです)

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【大磯今昔・澤田美喜8】(Vol.75)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.11.21】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
澤田美喜のシリーズも、大磯での暮らしに入ります。
 
昭和6年ロンドンでの「バルナドス・ホーム」での出会いから、18年、太平洋戦争の終結から悲惨な出来事が続きます。
岩崎家でも、4代目の小弥太の時、財閥解体の憂き目にあい、大磯駅前の別邸も政府に物納され3代目までは買い戻せないという事に成り美喜は、悲しい戦争の犠牲者になった女性達(特に母親たち)と、その子供たちに何とか手を差し伸べようと、奮闘します。
 
そこで、大磯駅前の土地は、日本聖公会が購入するという事で、何とか許可がおりましたが、実際は美喜一人が世界を駆け巡りこの戦争の犠牲者になった子供達を一人でも多く救いたい、幸せな人生を歩かせたいと~、でもその為には、当時のお金で400万円、最初に200万、3か月後に200万、毎日毎日資金集めに東奔西走します。
 
そして昭和23年、エリザベス・サンダースホーム(最初にご寄付頂いたエリザベスサンダース女史のお名前を冠にした)設立の運びとなりました。
 
今回は、投稿した写真を見て頂きその説明をしながら、当時を偲んでください。
最初の2枚の写真は、唯一建物が残っている、エリザベス・サンダースホームの敷地内に、ママちゃまの部屋が有ります。
その室内と、そしてよくママちゃま(澤田美喜の事をホームの子供達は、そう呼びます)が座っていた椅子です。美喜の没30年のイベントが有った時に撮った写真です。

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3枚目、4枚目の写真は、今月、山梨県の清里に清泉寮という宿初施設他、自然学校や牧場、昔外交官夫人の時代に美喜が親交が有った、ポールラッシュさんが、設立した清泉寮と、ポールラッシュ記念館に美喜が寄贈した(当初は大事なものを疎開するつもりで預けたみたいですが)、現在はサンダースホームを卒業した子供たちの就業先として、協力して頂いたお礼に、この有田焼の器とかが展示されています。

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記念館には、澤田美喜をはじめとして、吉田茂の写真も展示されています。
そして最後の写真は、現在公開されています澤田美喜記念館です。

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大磯駅から、横断歩道を渡り「ほっこり」の前を通り、バス停の前に明治23年頃に建てられた岩崎家の御門、ここに澤田美喜記念館の看板が掲げて有ります。入ると、左側の階段を登っていくと、キリシタン灯籠、鐘、碇石、写真で見えます26本の鉄の棒につかまり上ると、そこは「ノアの方舟」をモデルにした建物で、日本最初の免震構造の澤田美喜記念館、是非訪れて下さい。とても貴重なものが沢山あります。
では次回に。

2018年5月 7日 (月)

【大磯今昔・澤田美喜6】(Vol.73)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.11.14】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
前回は、美喜が家族と一緒にロンドンに渡ったお話でした。
 
船中での出来事から、美喜はロンドンでの子供達を見てくれる保母探しに紛争します。
選んだところが、イギリスのノーランド にある「保母カレッジ」です。
ここで、雇った保母はその後、イギリスだけではなく、フランス・アメリカ・最後には日本にまで来て、太平洋戦争の始まる時、交換船で帰って行きましたが、4人の子供達にイギリスの良き教育をしてくれたと、感謝してると語っています。
 
子供達だけではなく、美喜本人も生まれながらに物質的に恵まれすぎた家庭に育ち、望むものは直ちに与えられ、得られるということに慣らされていました。
そのために物質で幸福が買えるものと思っていました。
美喜は、生まれてはじめて物質で買う事の出来ない幸福が有るという事に気づいて「ハッ」と、立ちすくしたと言います。
「心の目を開く」ということは、恐ろしい事です。
 
きのうまでなにも知らないでいた事が、そして、明るく見えていたものが、心の目で見ると真っ暗になってしまいます。
こんな思いを美喜はイギリスに赴任している間、いやっというほど感じます。
 
美喜は、外国の生活を結婚前からどんなに望み、憧れていたことでしょう。
そして、自分で学び得た語学を実際に使う事を楽しみにしていました。
でも、現実は違っていた、外交官夫人としてお茶・コクテル・午餐に、夜会・社交界の絶え間ない催しに、興味がなくなり人の為、世の為になる何かを残したいと思う様になり、イギリスは社会事業の行き渡った国、立派な福祉国家であること、報酬を求めない奉仕の精神を国民の誰もがもつすばらしい国です。
 
日曜ごとに通った教会、奉仕の一環として訪ねた、「ドクター・バルナドス・ホーム」の設立者である、トーマス・ジョン・バルナ―ド博士にお会いした時、美喜は、残された余生を捧げる仕事を見つけたと語っています。
 
では、次回~大磯での暮らしを語ります。
写真は、夫廉三の赴任地で社交界の写真、天命を受けたトーマス博士です。

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【大磯今昔・澤田美喜5】(Vol.72)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.11.07】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
澤田美喜さんのシリーズ、5回目です。(敬称略)
 
大正11年7月に結婚して、その年の12月には最初の赴任地(アルゼンチンのブエノスアイレス)に夫、廉三に随行し外交官夫人としての第2の人生の幕開きです。
もうこの時には、長男信一さんを身ごもっての旅立ちです。
 
大正12年7月 長男信一誕生。13年8月次男久雄。14年9月三男晃。
昭和3年 長女恵美子誕生。3男1女をもうけ、家族6人で赴任したロンドンでの暮らしがその後の、美喜の人生を大きく変えるきっかけになります。
 

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美喜の父もとても厳しい方でしたが、イギリス人の子供に対するしつけに、美喜は何度がハッとする場面に遭遇します。
例えば、最初の赴任地に向かう船内での事、夕食を知らせるどらの鐘が鳴った時、4歳ぐらいの子供とイギリス人の婦人がデッキに居ました、子供はそこにある碁盤の碁を三組全部ひっくり返して遊んでいました。
当然、鐘が鳴ったので子供は立ち上がり行こうとしましたが、その母が全部6つの入れ物に、白と黒とを元通りにするまで食事は後です、当たり前の事ですが、その片付けに1時間近くかかれば、ついつい手を貸してしまいますが、絶対手は貸しません。
 
翌日も、小さい子が甲板で転ぶと母親は立ったまま、子供が自分で立ち上がるまで手を貸しません。
美喜がその行動を見ていると、こんな事を、その母は言いました。
 
「自分で転んだのに自分で立ち上がれないような子は、大きくなっても1人前に独立は出来ません」私はこのイギリス婦人の人つくりの精神に重ねて感心させられましたと、ご自身の本に書いていらっしゃいます。
  
この後、エリザベス・サンダースホーム設立のきっかけになる、ロンドンのドクター・バナードス博士にお会いして、「ドクター・バナードス・ホーム」という孤児院での出会いが彼女の第3の人生への幕開けとなります。
 
次回へ続く。
今回の写真は、家族6人でロンドンに渡った時の写真と、昨日訃報のお話を聞いたので今回掲載させて頂きますが、美喜がサンダースホームを開いた年の最初の入所者のサミーさんが先月の22日に69歳でお亡くなりになりました、ご冥福をお祈りします。
その当時の写真です。そして、現在のエリザベス・サンダースホームです。

2018年5月 2日 (水)

【大磯今昔・澤田美喜4】(Vol.71)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【16.10.31】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
澤田美喜さんのシリーズの続きです。(敬称略)させて頂きます。
 
前回は、キリスト教との出会いから、東京女子高等師範(現在のお茶の水女子大学付属)学校を退学して、家庭内の勉強に入りました。
とわいえ、岩崎家ですので素晴らしい教育が行われました。
学校教育よりも厳しかったかもしれません。
 
特にこの時代であるのに(明治時代後半から大正にかけて)、英語教育に関して美喜の母(津田英語塾を卒業)はこんな事を言っています。
「日本人は、外国に行って社交界の中にはいっても、たいへん見劣りがするものです。
外見も、服装も、そして、身につける宝石にしても、何一つかなわないのだよ。
しかし、たった一つ、彼ら以上になれるものがあります。
それが語学なのです。
外国人はどこへ行っても英語が通じると思って、少しも他の国の言葉を勉強しない。
貴方は、何処の国へ行っても、まず第一に言葉を勉強しなさい。
そして、全ての話題にはいることのできる、広い常識をもつことを心掛けなさい」
この言葉を糧に、美喜は一生を通じて語学を行く先々で勉強したそうです。
 

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そして美喜も年頃になり、数知れない縁談が来ますが中々、思う様な方が現れません、何故かというと、世間では財閥のお嬢様ですので、当然お相手は子爵や男爵、華族、そうゆう方や、又ご子息でした。
 
ところが、美喜はそうゆう輩が大っ嫌いでした、親の陰に隠れたり、親の身分をかさに着たり、そんな訳で双方の望みはかみ合いませんでした。
 
ある時美喜の思い(外国生活をして、語学の勉強をすることと、キリスト教に入るチャンスに恵まれること)と、重なる方が現れました。
 
後に総理大臣になられます、加藤高明(奥様は美喜の叔母・春路)、幣原喜重郎(奥様は美喜の叔母・雅子)の紹介で外交官の澤田廉三とお見合い、三か月後には結婚、第2の人生のスタートです。
次回に続く。
写真は、結婚披露宴の会場、美喜の晴れ姿、新婚を過ごした、澤田廉三の実家が有る近くの、鳥取県浦富の浜(サンダースホームの子供達の臨海学校の場にもなった場所です)、3年程前に現地に伺って撮ってきた写真です。

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