大磯今昔

2017年10月16日 (月)

【大磯今昔・岩崎弥之助1】(Vol.17)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.10.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今週から、またまた大変なシリーズが始まります。
お見逃しなく、しっかりあこちゃんに付いて来て下さいね。

1016_1今週から、大磯駅前(現在は、エリザベスサンダース・ホーム、 聖ステパノ学園)に明治23年頃、駅周辺(簾田、坂田山付け、他を含め)約32000坪を、母美和の養生所として2代目岩崎弥之助が購入しました。

三菱財閥の2代目岩崎弥之助、その土地を相続しました、3代目岩崎久弥を語りたいと思います。
でも、三菱の始祖で有ります岩崎弥太郎を抜きにして、2代目~3代目を語る事は出来ません。

何故かと言うと、三菱財閥は「血の三菱」、「組織の三菱」と言われ、初代弥太郎、2代目は弟の弥之助、3代目は弥太郎の長男 久弥、4代目は弥之助の長男小弥太、まさに血族そのものです。
そして、4代目小弥太の時に財閥解体を迎えるという、劇的な終焉を岩崎家は迎えます、そしてその後、現在まで存続しています。

エリザベスサンダース・ホーム、、聖ステパノ学園の創設者は岩崎弥太郎の孫、澤田美喜で有る事。
今回は、始祖で有ります岩崎弥太郎のお話を少しさせて頂き、本格的に次回へ続けたいと思います。

岩崎弥太郎は、1834年、高知県は宿毛というところに生まれ、土佐藩の最下層に位置する武士の出身から、財閥へと上り詰めていきます。
では、次回へ続く。

写真は、今年の春訪ねました、土佐の岩崎家生家近くに有りました銅像、生家の庭に日本地図を表し、生涯を夢見ていた。
現在駅前に残ってます、当時の御門です。

2017年10月 9日 (月)

【大磯今昔・池田成彬2】(Vol.16)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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1009【15.10.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
池田成彬(しげあき)氏は、三井財閥の実力者、中上川彦次郎の長女・艶と結婚します。
この時代の人達は、財界、政界、そのパイプに実力者の娘との結婚が多い時代でしたね。
池田氏もそうでしたが大磯に住まわれていた方で、24代、25代の総理大臣になられた、加藤高明氏は岩崎弥太郎の長女、春路と結婚、この事については別の機会に語りますね。

前回で、文化村(池田農園)のお話をしますと、お約束しましたが、大正8年に東小磯348番地外に池田農園を作り、文化村と呼ばれました。
財界の激しい日々に動中に静を求め、のどかな時を過ごされたようです。

池田農園設立の事務一切を前山久吉(王子製紙、東京信託、日本製粉会長)に依頼しました。
大正13年頃、長男成功(しげかつ)が引き継ぎ、同年にイギリスで2年間メロンなどの栽培を学び、五島八左衛門を主任に迎え、1000坪の農園を作りました。

この地は、マスクメロンの日本最初の産地になります。大磯初めて物語が又、増えました。

昭和2年に、(株)池田農園を設立し、我が国の園芸界のリーダーとして、種苗の生産、種子の改良に尽くし、昭和9年に茅ケ崎に分園をもち、300坪の温室にはカーネーション、フリージャ、マンゴー、洋ナシ、シクラメン、ガーベラ、洋ラン、が有り「パヒオぺディラム・ツヤイケダ(コイソ)」、大磯の地名を付けた、シンピデュ―ム、お母様の名前を付けたランの品種改良をし、英、米、独の代理店を持つようになり、昭和10年に、日本園芸(株)と改めました。

又、池田氏の身辺は質素で「成彬」(せいひん)ではなく、「清貧」とも呼ばれ、政界引退後は、書画骨董を売って、生計を立てていた程であったとのことです。

昭和25年10月8日、現在建物が残っています住まいで、享年84歳で亡くなられました。

現存している建物は、昭和7年中條精一朗(ジョサイヤ・コンドル の弟子、辰野金吾の弟子)の設計。
神奈川県建物100選に選ばれていて、町としての公開が待たれる建物だと思います。

*写真は、建物横からと、池田農園跡地の街並み、先週護国寺にお墓参りに行って来ました。(本当に質素でした)

2017年10月 3日 (火)

【大磯今昔・池田成彬1】(Vol.15)

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【15.10.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、池田成彬(しげあき)氏について、語ります。

大磯、東海道の松並木を元勲通りと言いますが、その1番奥に現存し、昭和7年に建てられたとは思えない、今でもモダンな建物として、神奈川県の建物100選に選ばれています。建物については、後程お話します。

氏が、大磯町西小磯に居を構えたのは、大正6年頃です。
西園寺公望公が大磯を去り、與津の座漁莊に移られたので、その跡の屋敷を求めました。
(後に、この屋敷は東小磯に池田農園として移築しました)

彼は、慶應3年(1867)7月16日、米沢藩士池田成章の長男として生まれ、父は維新の改革により米沢藩知事に任命された人です。

氏は、明治、大正、昭和三大にわたり、財界、政界に偉大な足跡を残した方です。
明治21年に慶應義塾を卒業し、明治28年米国ハーバード大学を卒業し、三井銀行に入行、三井合名会社筆頭常務理事(事実上の三井財閥総師)にまでなられた方で、色々な改革をしました。

*三井系企業からの三井家同族の退陣。
*株式の公開  *社会事業への寄付  
*三井合名直系、6社に定年制を導入 等々

自らも、70歳で退職するなど、経営者に対する規律を求めた。
退職後は、近衛文麿に請われて内閣参議、大蔵大臣兼商工大臣を勤めました。

その後、西園寺公望公から首相就任の打診が有りましたが、親英米派の氏に対して、陸軍の反発で立ち消えましたが、その後、同じ自由主義者であった吉田茂とは考え方が合い、近所に住んでいたという事も有り吉田氏は、財政、人事についてしばしば池田氏に相談に来ていたそうです。

次回は⇒東小磯に池田農園(文化村)を作られたお話に続く。

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写真は、現存する池田邸とその入り口の写真です。
    (厳密に言いますと、現在は有る銀行の所有です)
    隣は滄浪閣です。

2017年10月 2日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文11】(Vol.14)

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【15.10.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
とうとう伊藤公のお話も今回で終焉を迎える事になりました。

前回で、大磯小学校の子供達に入学祝に1人10銭を送られたお話をしましたが、下級生には毎年4月頃になると、各級一団となり先生に連れられて、滄浪閣を訪問し公の居室の間や床の間の鎧兜や、明治天皇陛下より御下賜の八幡太郎義家の奥州攻めの襖を見学したそうです。

1002農漁村の人達と話をしたり、未来ある子供達には、自分の家の中を惜しみなく見せたり、本当にかざりっけのない公でした。
そして、公の遺徳の片鱗に触れるにつれ、露国蔵相であり、東洋事務主管者のココフッェフとハルピンで公は東洋問題を打ち合わせる為、明治42年10月14日滄浪閣を出発しました。

この満州旅行を通じて清国、露国との国交を円滑にし更に、日清・日露の聖戦の忠魂の旅にしたかったとか?
公は旅立つ前に、嗣子博邦氏と壮行の盃を交わし公は「俺は今迄生きていたのが自分でも不思議だと思うくらいじゃ。
おぬしもわしの志を継ごうというなら、この覚悟を持って居れ」と、言い残し大磯駅から、下関~ハルピンへと旅立ちました。

一行の汽車は、同月26日午前9時ハルピン駅に着き、駅に第一歩を降りた時、突如朝鮮人安重根の拳銃の為、その場に倒れた。
午前10時出血多量の為、昇天された。
明治42年11月4日、東京日比谷公園にて、国葬の儀式が執行された、公、69歳の生涯を閉じた。

戒名   「文忠院殿博誉古林春敏大居士」
墓地   東京都品川区大井
位牌   大磯大運寺
記念碑  白岩神社の境内に藤公碑有り

偲んでも、偲んでも、偲べないほどの思いを大磯の人々に残されました。
今、元勲通りとして、皆様に大磯の町をご案内できるのも、公のお蔭だと思います。合掌。

写真は、大磯小学校の現在。
    ハルピンに旅立つ時に通られた大磯駅の貴賓口
    品川の伊藤公の墓地
    大磯白岩神社の藤公碑。

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2017年9月28日 (木)

【大磯今昔・伊藤博文10】(Vol.13)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.09.28】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
伊藤公のお話も、次回で終焉を迎えます。

今回は、公が大磯町で町民や子供達に色々な遺徳を尽くされた事を報告します。
明治34年大磯小学校が現在地に新築されるに当たり、時の町長宮代謙吉氏は、伊藤公にご相談した処、寄附芳名簿の筆頭に金5百円也(現在の約1万倍ぐらいでしょうか?)を記入されました。

それから財界の巨頭の三井、三菱、更に沢山の別荘の人々の申し出で多額の建築寄付金が集まり、当時としては全国一の見事な2階建ての校舎が出来ました。

でも残念な事に、大正12年9月1日午前11時58分44秒、マグネチュード(マグニチュード)7.9の烈震、関東大震災で校舎は全壊してしまいました。

明治37年5月からは、小学校児童に1人10銭を郵便貯金通帳に入れ入学祝と貯蓄心を薦める意味で、お手元金から各人に下さった。
この事は、公が世を去った後も西園寺公望公、有村国太郎さんや他の有志の皆様が公の遺徳を引き継ぎその後10年以上続きました
(当時、お米1升の値段は13銭ぐらいです)。

明治38年12月、韓国統監になられた公に感謝の意を込め、町民総意で、大磯駅から滄浪閣までの道が非常に狭少であったので、お金のある人はお金を出し、土地のある人は土地を出し、お金も土地もない人は共に汗を流しこの、統監道を作りました。
巾3,8M。長さ528M、沿道には梅と桜が交互に植えられた。

そして、邸内の松林の中明治の元勲、岩倉具視、大久保利通、三条實美、木戸孝允の四賢人を祀り、国家安泰を常に祈っていました。後に、公自身と、西園寺公望公、吉田茂の3名も祀られ、先週の21日から23日まで、一般公開されました。(現在は吉田邸の中腹に七賢堂として祀られています。)

次回は、ハルピンでの悲しいお知らせです。

写真は、その時の公開の写真です。

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2017年9月25日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文9】(Vol.12)

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【15.09.21】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
初めて読む方に~伊藤博文公の話です。

大磯の滄浪閣は、公にとっては別荘でなく本邸でした。
梅子夫人も、ここに住まわれ、公の母堂に孝養を尽くされ、母堂85歳で、本邸で逝去された縁の滄浪閣でした。

「滄浪」の語源は、楚辞に有り、何事も自然の成り行きにまかせて身を処する意を表しています。
公は本当にそれを地でいく暮らしで、大磯にお住いになられてからの日常生活は、素朴を好み、散歩するときには、鳥打帽に着物の着流しで、御付きは書生1人をお供に、ブラリと農家に立ち寄って、米麦の値段や野菜の出来具合を聞いたり、農家の生活状態に心を砕かれていた。

夜は小磯の浜に出かけ、地びきを見に行ったり、イカ釣り舟の漁夫に夜まで働かなければ生活が困るのかと、話しかけたり、1国の首相が農漁村の実情を細かく知り、政治の上に反映したのです。
現在の政治家の方達と比べてはいけないのでしょうか?

更に、大磯の町民に沢山の思いを注いで下さいました。
次回へ続く。

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写真は、海の滄浪閣と共に山には別荘を持たれました。
    跡地の写真です。
もう1枚は、よく散歩にいらした白岩神社。
その奥のお堂に小さな伊藤公の胸像が安置されてます。

2017年9月18日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文8】(Vol.11)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.09.14】掲載文
何か書く...「大磯今昔」のあこちゃんです。
伊藤公、遂に大磯に上陸しました。(笑)

伊藤公は、大磯に住まいを構える前に小田原の御幸が浜に別荘を建て初めて滄浪閣と名付けました。その扁額を書いたのは、明治の三筆と言われる、巌谷修、号は一六、その方が書いた書が大磯に残ってました、和菓子の老舗新杵さんの看板です(写真有り)

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918_1大磯の滄浪閣の扁額は李鴻章の麗筆です。
当時梅子夫人の御病気に心を痛め、小田原に行く途中、大磯の招仙閣に病気静養の為、2年以上もお住まいになり温暖な気候に魅せられ、本格的に大磯に居を構える為、明治30年10月1日に東京より本籍を移し、公自ら大磯町役場を訪れ、5代町長宮代謙吉に会い、「自分も今度大磯町民となったので、大磯の為に尽くすつもりだ、町の為になる事はなんでも遠慮なく申し出るがよい」と申された~と、記録に残ってます。
(有難うございますと、本当に感謝ですね~これあこの気持ち)

こうして、大磯暮らしが始まりました。
伊藤公が大磯の滄浪閣にお住いになってから、政界、財界、文人の別荘が多くなり、「天下の大磯」に、自他共に名声が高くなりました。

明治の高官、大隈重信、樺山文相を始め大勢の方々が競って別荘を建てられたので、今の永田町のようでした。

日清戦争、続く日露戦争の聖戦の真只中で大磯休日など考えられなかったでしょうが、動中静有りの日々を大磯で過ごされました。

次回に続く。

2017年9月11日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文7】(Vol.10)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.09.07】掲載文
何か書く...「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回は失礼しました。今回は思はず日付けが替った途端、投稿したくなりました。

0911_7早速、伊藤公は、総理大臣就任後の緊急の課題として、憲法起草に着手しました。
明治20年6月から~夏島(現・神奈川県横須賀市)に建てられた別荘で、翌年憲法草案は完成した。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法として発布されたのです。
これまで、大磯に本宅(明治30年10月、本籍を東京から移した)を構えるまでの伊藤公は、政治上のストレス発散も兼ね、気に入った場所が見つかると、自邸や別荘の建築を行ったのです。

彼の新築は、いつも速成が必要条件であり、材木の選択や工事の精巧さは殆ど気にしなかった。
何と、20年近い間に、10ヶ所以上の転居、売却を繰り返したそうです。
では、何故大磯に本宅を構えたのでしょうか?

伊藤公は、穏やかな大磯の気候がとても気に入り、又、交通の便が良い(鉄道は国府津迄しか通って無かったので、小田原に行くには不便だった)ので、日清戦争を挟んで、4年もの政権を担当した疲れを、海岸の自然の中で癒したかったのです。滄浪閣だけではなく、山の別荘も構えました。

次回から、やっと、思いっきり大磯での暮らしを語れます。

皆様は、伊藤公が2015年までの、歴代総理大臣の中で、最も若い、44歳2ヶ月の記録をもっているのをご存知でしたか?
では、次回こうご期待。

前回は写真が有りませんでしたので、今回はたっぷり載せます。
*東京品川の伊藤町墓所、灯籠、伊藤公名残の名前の付いた
  小学校。(先週、久しぶりに行って来ました。)
*横浜の金沢別荘。(先月、行って来ました)

2017年9月 5日 (火)

【大磯今昔・伊藤博文6】(Vol.9)

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【15.09.03】掲載文
前回、伊藤公の初代総理大臣誕生秘話に付いて、お話する約束でしたね。

伊藤公は、貧農の出で武士になったものの身分制度からいったらとても総理大臣を争うような立場では無かった。
伊藤公が尊敬していた木戸孝允が、伊藤公を評した言葉に「剛凌強直」ごうりょうきょくちょく~(地位や命ですら、いつでも捨てる覚悟で信念を通す生き方~その責任感をもった男)と、又彼をこんな風に言う人も居ました。

「王侯将 相 寧 有種」おうこうしょう しょう いずくんぞ しゅあらん~(王者・諸侯や将軍・宰相となるのは、家柄や血統で決まっているのではなく、各自の才能・努力などによるものである)
まさに、彼はこの言葉を地でいったのです。

では誰とトップの座を争ったかというと、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の1つ三条家の生まれ、公爵である三条実美公です。

伊藤公を色々、良く評価してくれた木戸さんは明治10年に亡くなられてるしいざ決戦、宮中での会議では誰もが口をつぐんでいました。

そんな中、伊藤公の盟友である井上馨が「これからの総理大臣は赤電報(外国電報)が読めなくては駄目だ」と口火を切り、更に山縣有朋公が「それなら、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成したのです。(前回の時に、伊藤公が自分の語学力の確認をして、足らない所の補足勉強をしたお話が有りましたね。)

これを見ている若者達よ、明治のこの時代に英語力で2者択一されたのですよ。今の時代にも繋がりますよね、凄い事だと思いませんか?

今の政治の世界も、通訳を通してではなく生身の声を聞けないと大変ですよね。「今昔~を語っているつもりが、現代にも通じました。」
でも、ここからが大変です。

この心を癒すことが出来たのが、大磯での暮らしでした。
次回へ続く。

2017年8月27日 (日)

【大磯今昔・伊藤博文5】(Vol.8)

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【15.08.24】掲載文
最近どんなことがあった?
「大磯今昔」のあこちゃんです。

伊藤公が大磯に本宅を構えるまでのお話を語りたいのですが、前回からの続きでお話しますと、後30年掛かります。もう待ってはいられません。(笑)

ここからは、早回しでいきます。
でも、大事なお話が2点有ります、そこは、今回お話しさせて下さい。

前回は最初の奥様のお話し、今回は2度目の奥様、梅子さんとの出会いです。
(後に、日本最初のファストーレディになる方です)

伊藤公は、英国から戻ってから攘夷論の限界を感じ、開国論に転じてから、有る時、攘夷派にねらわれて長崎の亀山社中に逃げ込みます、その時お茶子をしていた梅子さんの機転で、追ってから逃れる事が出来ました。その時に、梅子さんに一目惚れ、すみさんと離婚、翌月に梅子さんと結婚、その年の12月に長女、貞子さん誕生。びっくりですが、この辺から彼の女性のお話の片鱗がうかがえます。

ここから早回しでいきます、この5年後岩倉使節団で欧米派遣特命全権副使として同行します。
伊藤公は英会話は良く出来ましたが、読解力が不足していると感じ勉強します。(この事が後の、初代総理大臣を決定する事に繋がります)

この14年後の、1885年(明治18年)12月、伊藤博文
初代総理大臣が誕生します。
その誕生秘話は次回に続く。(大磯での暮らしに突入です)

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写真は梅子さんが匿った亀山社中の門前です、実際は裏のゴミ捨て場です。
もう1枚は、岩倉使節団で旅立つ時の、スケッチ写真です。

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私と東海道との係わりの源です

西湘を拠点にして色々なプロジェクトを立ち上げて奮闘しています。そして私も遊ばされています。

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