大磯今昔

2017年9月18日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文8】(Vol.11)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【15.09.14】掲載文
何か書く...「大磯今昔」のあこちゃんです。
伊藤公、遂に大磯に上陸しました。(笑)

伊藤公は、大磯に住まいを構える前に小田原の御幸が浜に別荘を建て初めて滄浪閣と名付けました。その扁額を書いたのは、明治の三筆と言われる、巌谷修、号は一六、その方が書いた書が大磯に残ってました、和菓子の老舗新杵さんの看板です(写真有り)

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918_1大磯の滄浪閣の扁額は李鴻章の麗筆です。
当時梅子夫人の御病気に心を痛め、小田原に行く途中、大磯の招仙閣に病気静養の為、2年以上もお住まいになり温暖な気候に魅せられ、本格的に大磯に居を構える為、明治30年10月1日に東京より本籍を移し、公自ら大磯町役場を訪れ、5代町長宮代謙吉に会い、「自分も今度大磯町民となったので、大磯の為に尽くすつもりだ、町の為になる事はなんでも遠慮なく申し出るがよい」と申された~と、記録に残ってます。
(有難うございますと、本当に感謝ですね~これあこの気持ち)

こうして、大磯暮らしが始まりました。
伊藤公が大磯の滄浪閣にお住いになってから、政界、財界、文人の別荘が多くなり、「天下の大磯」に、自他共に名声が高くなりました。

明治の高官、大隈重信、樺山文相を始め大勢の方々が競って別荘を建てられたので、今の永田町のようでした。

日清戦争、続く日露戦争の聖戦の真只中で大磯休日など考えられなかったでしょうが、動中静有りの日々を大磯で過ごされました。

次回に続く。

2017年9月11日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文7】(Vol.10)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.09.07】掲載文
何か書く...「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回は失礼しました。今回は思はず日付けが替った途端、投稿したくなりました。

0911_7早速、伊藤公は、総理大臣就任後の緊急の課題として、憲法起草に着手しました。
明治20年6月から~夏島(現・神奈川県横須賀市)に建てられた別荘で、翌年憲法草案は完成した。
明治22年2月11日、大日本帝国憲法として発布されたのです。
これまで、大磯に本宅(明治30年10月、本籍を東京から移した)を構えるまでの伊藤公は、政治上のストレス発散も兼ね、気に入った場所が見つかると、自邸や別荘の建築を行ったのです。

彼の新築は、いつも速成が必要条件であり、材木の選択や工事の精巧さは殆ど気にしなかった。
何と、20年近い間に、10ヶ所以上の転居、売却を繰り返したそうです。
では、何故大磯に本宅を構えたのでしょうか?

伊藤公は、穏やかな大磯の気候がとても気に入り、又、交通の便が良い(鉄道は国府津迄しか通って無かったので、小田原に行くには不便だった)ので、日清戦争を挟んで、4年もの政権を担当した疲れを、海岸の自然の中で癒したかったのです。滄浪閣だけではなく、山の別荘も構えました。

次回から、やっと、思いっきり大磯での暮らしを語れます。

皆様は、伊藤公が2015年までの、歴代総理大臣の中で、最も若い、44歳2ヶ月の記録をもっているのをご存知でしたか?
では、次回こうご期待。

前回は写真が有りませんでしたので、今回はたっぷり載せます。
*東京品川の伊藤町墓所、灯籠、伊藤公名残の名前の付いた
  小学校。(先週、久しぶりに行って来ました。)
*横浜の金沢別荘。(先月、行って来ました)

2017年9月 5日 (火)

【大磯今昔・伊藤博文6】(Vol.9)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.09.03】掲載文
前回、伊藤公の初代総理大臣誕生秘話に付いて、お話する約束でしたね。

伊藤公は、貧農の出で武士になったものの身分制度からいったらとても総理大臣を争うような立場では無かった。
伊藤公が尊敬していた木戸孝允が、伊藤公を評した言葉に「剛凌強直」ごうりょうきょくちょく~(地位や命ですら、いつでも捨てる覚悟で信念を通す生き方~その責任感をもった男)と、又彼をこんな風に言う人も居ました。

「王侯将 相 寧 有種」おうこうしょう しょう いずくんぞ しゅあらん~(王者・諸侯や将軍・宰相となるのは、家柄や血統で決まっているのではなく、各自の才能・努力などによるものである)
まさに、彼はこの言葉を地でいったのです。

では誰とトップの座を争ったかというと、藤原北家閑院流の嫡流で清華家の1つ三条家の生まれ、公爵である三条実美公です。

伊藤公を色々、良く評価してくれた木戸さんは明治10年に亡くなられてるしいざ決戦、宮中での会議では誰もが口をつぐんでいました。

そんな中、伊藤公の盟友である井上馨が「これからの総理大臣は赤電報(外国電報)が読めなくては駄目だ」と口火を切り、更に山縣有朋公が「それなら、伊藤君より他にはいないではないか」と賛成したのです。(前回の時に、伊藤公が自分の語学力の確認をして、足らない所の補足勉強をしたお話が有りましたね。)

これを見ている若者達よ、明治のこの時代に英語力で2者択一されたのですよ。今の時代にも繋がりますよね、凄い事だと思いませんか?

今の政治の世界も、通訳を通してではなく生身の声を聞けないと大変ですよね。「今昔~を語っているつもりが、現代にも通じました。」
でも、ここからが大変です。

この心を癒すことが出来たのが、大磯での暮らしでした。
次回へ続く。

2017年8月27日 (日)

【大磯今昔・伊藤博文5】(Vol.8)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.08.24】掲載文
最近どんなことがあった?
「大磯今昔」のあこちゃんです。

伊藤公が大磯に本宅を構えるまでのお話を語りたいのですが、前回からの続きでお話しますと、後30年掛かります。もう待ってはいられません。(笑)

ここからは、早回しでいきます。
でも、大事なお話が2点有ります、そこは、今回お話しさせて下さい。

前回は最初の奥様のお話し、今回は2度目の奥様、梅子さんとの出会いです。
(後に、日本最初のファストーレディになる方です)

伊藤公は、英国から戻ってから攘夷論の限界を感じ、開国論に転じてから、有る時、攘夷派にねらわれて長崎の亀山社中に逃げ込みます、その時お茶子をしていた梅子さんの機転で、追ってから逃れる事が出来ました。その時に、梅子さんに一目惚れ、すみさんと離婚、翌月に梅子さんと結婚、その年の12月に長女、貞子さん誕生。びっくりですが、この辺から彼の女性のお話の片鱗がうかがえます。

ここから早回しでいきます、この5年後岩倉使節団で欧米派遣特命全権副使として同行します。
伊藤公は英会話は良く出来ましたが、読解力が不足していると感じ勉強します。(この事が後の、初代総理大臣を決定する事に繋がります)

この14年後の、1885年(明治18年)12月、伊藤博文
初代総理大臣が誕生します。
その誕生秘話は次回に続く。(大磯での暮らしに突入です)

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写真は梅子さんが匿った亀山社中の門前です、実際は裏のゴミ捨て場です。
もう1枚は、岩倉使節団で旅立つ時の、スケッチ写真です。

2017年8月21日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文4】(Vol.7)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.08.17】掲載文
最近どんなことがあった?
「大磯今昔」のあこちゃんです。

前回に引き続き、伊藤博文公、英国を目指し、厳しい航海の旅に出ました。
その旅が何故、厳しかったかというと、英語力もまだ無く、話す事も聞く事も出来なかった為、大きな誤解が生まれ、お客として乗船したつもりが、水夫として働くことになったからです。

その航海に持っていった辞書「英和対訳袖珍辞書」、この辞書はペリー提督が横浜に上陸した時、通訳をした掘達之助が作った辞書で、袖珍(しゅうちんと、読みます)は、袖の中に入れて持って歩く事ができるほどの、小型の本という意味です。

本来の伊藤公に戻します。
実はこの密留学する2ヶ月前に、松下村塾四天王、「久坂玄瑞(げんずい)、高杉晋作、吉田稔麿(としまろ)、入江九一(くいち)」の入江九一の妹、すみと最初の結婚をします。

一説によると、山縣有朋公と、すみさんの愛を競ったとか?
結果、伊藤公の勝利、晴れて結婚へ。

其の2ヶ月後の5月にロンドンへと向かい、5人はロンドン大学に入学します。
西洋文化に触れた伊藤公は、攘夷論の限界を感じ、開国論に転じていきます。
慶応3年(1867)、情報収集の為、出張した長崎で坂本龍馬らと会見します。

早く、大磯に来てください。(あこちゃんからのお願いです)
次回へと続く。

0821写真1は、松下村塾
  2は、坂本龍馬たちが良く通った、亀山社中。
  3は、飲みに行った、「料亭一力」の現在の昼食膳
    「卓袱(しっぽく)姫重」です。とても、美味しか
     ったです。

2017年8月17日 (木)

【大磯今昔・伊藤博文3】(Vol.6)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.08.10】掲載文
最近どんなことがあった?
[大磯今昔」のあこちゃんです。
前回は、伊藤公が英国に密留学した話(後に長州フアィブと呼ばれる)で終わりましたが、本当はすぐにでも大磯での暮らしの話をしたいのですが、あまりにも伊藤公は武勇伝、女性のお話が多く、何処から攻めようか、迷ってしまいました。
結果、逆算して話を戻していこうと、思います。

大磯には56歳の時に本宅を構えて、ハルピンで暗殺されるまで12年間暮らしました。
初代総理大臣になった時が44歳、英国に渡った時が22歳、5人は、2人(伊藤公と井上馨)と3人に分かれてロンドンまで直行で行ったそうです、当時の日本の帆船では考えられなかったとか?

伊藤公が乗った船の名前は、「ペガサス」、その船はジャ―ディン・マセソンの持ち船(吉田茂氏の養父が勤めていた会社で、健三氏は横浜支店長を勤めていました。)、勿論その頃は英語が話せませんから、紹介してくれた人(ジャーディン・マセソンの甥)から「イギリスに行って何を勉強したいか」との問いに「アプレンティス(船乗り)」と答えてしまった。
さあ、大変!過酷な航海が始まりました。
次回に続く。

ここでの、カタカナ表記に対してのクレームはお受けできません。(笑)
年齢表記も、満年齢、数え歳、明治5年太陽暦等で、2~3歳の誤差有り。

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写真は、今年の5月に筆者が長崎にて撮影しました。
(ジャーディン・マセソン商会ー長崎支店が現在のグラバー園です)
トーマス・ブレーク・グラバーが支援した、坂本龍馬(亀山社中にて)、岩崎弥之助(キリンビールの瓶のラベルの元になった、麒麟の像)。

2017年8月14日 (月)

【大磯今昔・伊藤博文2】(Vol.5)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【15.08.03】掲載文
最近どんなことがあった?
「大磯今昔」のあこちゃんです。

今回は、伊藤博文公です。
何故、彼を選んだかというと、鉄道が大磯にひかれた明治20年別莊が数多く増えたなか、明治30年に伊藤公は東京品川の伊藤町から住民票を移し、大磯(滄浪閣)に本宅を構えたのです。

明治23年に小田原の滄浪閣に別荘を構え、ある年に別荘に向かう途中、奥様の梅子さんの体調が悪く、大磯の駅上の旅館(招仙閣)に泊まり静養をしてた時、大磯の温暖で北山南海の気候風土に癒された。
それがきっかけで、大磯に本宅を構えることになったのです。

それも、初代総理大臣になった方が、自分で郡役所に赴いてですよ。
「なんか、カッコイイ~」と、思いませんか?

そんな彼は、現在の山口県光市車荷字野尻の百姓、林十蔵の長男として生まれます。
御父上は、とても苦労された方ですが、安政元年(1854)、長州藩の伊藤直右衛門に認められ一家揃って養子となり、伊藤姓を名乗ります。

安政4年、彼は吉田松陰の松下村塾に学び、倒幕運動に加わり、活躍します。
文久3年には、井上馨ら5名と英国に密留学し開国論に転じ(後に彼らは、長州ファィブと呼ばれます。)ます。

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次回に続く。
写真は、現在の小田原の滄浪閣跡に建つ伊藤公の銅像
           長州ファイブの写真
       もう一度現在の大磯の滄浪閣の写真です。

2017年8月10日 (木)

【大磯今昔・伊藤博文1】(Vol.4)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。

【15.07.27】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
シリーズ2回目は、イ行の伊藤博文公を取り上げます。

私が「大磯今昔」を語りたいと思ったのは、日本の近代を作った多くの方達が、大磯に別荘をもち、本宅を構えた。
当時の旅館に宿泊し、書を書き、歌を歌い、そして我が国の基盤となった、政治、経済を語り、今の日本を作った。
その人達の足跡がどれだけ多くあるか?
又、どれだけ多くの姿を消してしまったか?
少しでも、忘れられないうちに皆様にお伝えしたい。

そして、大磯初めて物語がいっぱい有る事。
又、初代~の方がいらした事か?

その筆頭が、伊藤博文公です。
  *初代総理大臣
  *初代枢密院議長
  *初代貴族院議長
  *初代韓国統監   等々

幼名は、利輔、利助、後に俊輔。
今、大河ドラマ「花燃える」に出ているのは、利助の時の彼かな~。
写真は、今現在の滄浪閣の石碑、大磯図書館所蔵伊藤公のお顔です。
では、次回に続く。

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2017年8月 8日 (火)

【大磯今昔・浅野総一郎3】(Vol3)

大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズを連載しています。

【15.07.20】掲載文
「大磯今昔」のアコちゃんです。
浅野総一郎さんを図々しくも語らせて頂き、今回がシリーズ最終回です。
次回は伊藤博文公へと続きます。

浅野総一郎さんは、人生のスタートは挫折の繰り返しでした。
今の私達に彼は失敗を恐れて何もしないより、立ち上がれば必ず結果が付いてくることを、教えてくれた人だと思います。

自分自身が生きる事より、日本の国がこれから先、100年、1000年を見据えての仕事をして来た人でした。

最後の仕事になったベルリンで、体調を崩し、帰国後、大磯の別荘で静養しますが、食道癌である事が解った時(当時は、癌宣告は死を意味していた)、彼は何と言ったと思いますか?

「それは大変だ、仕事を急がねば」と、東京の自邸に戻り、命つきるまで仕事に打ち込みました。

昭和5年(1930年)11月9日午前零時52分、83歳
「死んだ後まで、社会に益す」の言葉を、残し亡くなった。

写真は、お身内が最後まで残していた400坪の別荘跡の1部です。

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2017年8月 5日 (土)

【大磯今昔・浅野総一郎2】(Vol2)

【15.07.13】掲載文
こんにちは、あこちゃんです。
前回からの続きで、大磯にゆかりのある浅野総一郎を語ります。

損一郎とまで言われた彼は越中国を裸一貫で上京、お茶の水の名水に砂糖を入れただけの「水売り」から再出発。この発想も凄いね、懲りないのよ。
更に元手金ゼロで次なる事業を始めます。
常に情報をキャッチして、次々と商売の幅を広げ「廃物の運用」を仕掛けていきます。

そんな彼と、大磯の関係は何時頃だったのでしょうか?
王城山の麓に別荘を構え(現在は安田不動産大磯寮)たのは、明治26年頃、事業が上手くいったら静養に、事業に行き詰まったら「北山南海」の大磯の気候風土に癒されました。

本当に骨身を惜しまず日本の将来を考えた人でした。
そして、未来の子供達の育成も考え浅野学園を設立。

先週の土曜日に、浅野学園の丘の上に建つ彼の銅像、鶴見の総持寺のお墓を訪ねました。
偶然にそのお墓で、三女のお孫さんにお会いする事が出来、彼の苦労話しを生で聞く事ができ、鬼の目にも涙です。
涙で曇りましたので、このお話の続きは次回「完結編」で!

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写真は、浅野総一郎、安田不動産大磯寮、銅像、お墓です。

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