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2013年9月21日 (土)

新島襄と八重

現在NHKで放映されている大河ドラマ「八重の桜」では、八重が新島襄と知り合い、結婚をして同志社英学校創立のために奔走している時期が描かれているのだと・・・・・・?
テレビを余り見ない私には、「多分そうだろうと思います?」

襄が八重と、永久の別れの舞台となった地が大磯です。

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     ▲永遠の別れの場となった「大磯・百足屋」渋沢篤二明治後期撮影写真集より

この、大磯に療養に来て、亡くなるまでの短い時間に大磯で過ごし、後の教育界に大きな足跡を残した『新島襄と八重』を同志社大学文学部を卒業してノンフィクション作家として活躍されている、保阪正康氏を招いて、NPO大磯ガイドボランティア協会と大磯町商工会、大磯町観光協会、徳富蘇峰記念館で共催して聖ステパノ学園「海の見えるホール」で開催をしました。

0921新島は明治18年に勝海舟を訪ねて大学設立の協力を仰いだ時に
勝曰く「君の建学精神、理想が実現されるのはいつ頃か?」
襄曰く「200年は要するだろう!」

襄の頭の中には「1231年の創立」大英帝国のケンブリッチ大学を始めとするヨーロッパの数ある大学の認知を得るまでにはかなりの時間を要するとの背景から「200年は要するだろう」と考えていたのだと保阪正康氏が語っていました。

また、奥さんとして迎え入れた「八重」の人生には、二つの顔を持っていたとの指摘にも興味を持ちました。
一つは「歴史に振りまわされた顔」
もう一つの顔は「歴史を振り回した顔」 何となく理解できます。

そして八重の87年間の人生を
○誕生から会津戊辰戦争の終結まで
○京都で襄と結婚、同志社創立の草創期
○明治23年1月の襄亡き後の生活
こうして期間を区切って考察すると、八重が近代日本史に対する見方、社会生活に対する適応性、そして夫・襄を通じての姿を確立し、当時の日本女性の枠組みを超えた自立する女性に変貌して自らの役割を果たしていった との話に大変興味を覚えました。

200年後には、まだ「64年」もあります・・・・・・。
その時には、日本の教育もどのように変化をしているのでしょうか?
私には検証しようがありません!

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