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2013年2月 1日 (金)

気になる「いじめ」と「体罰問題」

教育現場では「いじめ」
「体罰問題」では教育現場以外のスポーツ団体でも大きな社会問題になっています。

「いじめ」問題については、教育そのものの在り方、教育委員会の対応について多くの問題が提起されています。確かに多くの問題を抱えているのも確かなのでしょう。
私はその多くの要因の一つに、本来は「家庭」で育べき教えを放棄している面がある様に感じてならないのです。
しかし家庭の中には「政治」も「マスコミ」も入って行く訳にもいきません。
それだけに各家庭で「人間学」や「道徳教育」をしていく必要があるのだと痛感します。
それも「小難しくひねくり返すより、シンプルな教育」で。

人間学とは、一般に「人間とは何か?」「人間の本質とは何か」という問いに哲学的な思考と実証的な調査で答えようとする学問とされています。

久しぶりに「デカルト」「カント」の哲学者を想い出しました。
デカルトが「自我概念の発見」をしました。その大もとになる考え方は「人間とは何か?」です。
「人間学」が体系化されるに従って難しく?なってきます。

デカルトを受けて「カント」が「人間学」を明確にした代表的な哲学者でしょう。
 ○私は何を知ることが出来るのだろうか?
 ○私は何をすべきなのであろうか?
 ○私は何を望むのが良いのだろうか?
 ○人間とは何だろうか?
「デカルト」とそして「カント」の言う共通の「人間とは何か?」の問題が次第に学術的に「人間学」として発展してきます。そして研究が進めば進むほど複雑になり、私には逆に混乱して分からなくなってくるのです。

道徳を辞書で検索すると
 1 人々が、善悪をわきまえて正しい行為をなすために、
  守り従わねばならない規範の総体。
  外面的・物理的強制を伴う法律と異なり、自発的に正しい
  行為へと促す内面的原理として働く。
 2 小・中学校で行われる指導の領域の一。
    昭和33年(1958)教育課程に設けられた。
 3 《道と徳を説くところから》老子の学。

戦後、GHQは国史・地理と並んで修身を軍国主義教育とみなし、授業を停止させました。
その後1950年代に入り理性ある社会人を育てる「道徳」として復活しています。
小学校から中学校を通じて、身につける徳目とは、次の4つの柱で構成されています。
 ○主として自分自身に関すること
 ○主として他の人とのかかわりに関すること
 ○主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること
 ○主として集団や社会とのかかわりに関すること
ごくこく当たり前のことが書かれています。

しかし、これを本当に学校だけに任せておいて良いのでしょうか?
子どもが最初に経験する社会集団は家族です。
しかし、核家族化が大きく進展して「個」の存在も責任も大きくなったのですが、あくまで「家庭」という個人的な範疇の社会集団の中では、地域や国、国際社会との関わり方等の問題となると「家庭」と「社会」特に「国際社会」とは大きな隔たりが生じてくるはずです。

だからこそ、学校での「道徳教育」いう橋渡しが必要になり「家庭教育」を補う「道徳性」を涵養する場が必要となってくるのだと思います。
自分の子どもです。学校・地域・他人に任せずもう一度、自分の子どもの教育を見直しては如何でしょうか?

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