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2011年10月 9日 (日)

河津祐泰と工藤祐経の手打ち式?

曾我兄弟の仇討ちは1193年5月28日に源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件で赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つとして私も何度かこのブログで触れさせていただいている話題です。

そしてこの史実を物語として世に広めたのは「大磯の虎女」こと「虎御前」の存在があったからです。
敵討ちと悲恋。これが江戸時代になり初代市川團十郎が『寿曾我対面』を初演して大好評を得て、以降、この演目が正月興行には欠かせない出し物となったのです。

東海道シンポジウムに参加する前に大磯とかかわりの深い曽我兄弟等の史跡等を巡りました。

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    曽我寺

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     ▲
   兄弟のお墓

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     ▲
   曽我八幡宮

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     ▲
   五郎の首洗い井戸

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     ▲
   虎御前腰掛の岩

そして第24回東海道シンポジウム吉原宿大会に参加(詳細は昨日のブログを見て下さい)
懇親会で恒例の各宿場PRの場面で、吉原宿と大磯宿は1193年5月28日以来の関わりがあると「曾我兄弟の仇討ち」のことについて話しました。

ここでもう一度、曽我兄弟のあだ討ちの概略を整理しておきましょう!
日頃から、工藤祐経は叔父の伊東祐親に恨みを抱いていました。祐経は刺客を放って祐親の殺害を謀りましたが、刺客の放った矢が祐親の嫡男であり河津姓を継いでいた河津祐泰に当たり、祐泰は死んでしまいました。
河津祐泰の妻である満江御前とその子・一萬丸と箱王丸が残されてしまい、後に、満江御前は曾我祐信と再婚しました。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長しました。祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸こそ、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗ったこの物語の主人公なのです。

そこへ以前から懇意にしている品川宿の伊東さんがやって来て『実は僕の先祖は伊東祐親なのです。だから家紋も「庵横木瓜」なんですよ。』と。驚きました。
この談議をしている中に関宿の雲林院(うじい)さんが来て「私は討たれたほうの工藤祐経の子孫なのです」と・・・・・・・・?。
再び、驚いて絶句。
しかし、時間が経てば元々は身内同士です。出来事は800年以上昔の話です。
早速、舞台を借り、大磯宿の外川さんを虎御前に設えて伊東と工藤の手打ち式をさせていただきました。
会場から暖かい拍手と驚きの声があがったのは言うまでもありません。

東海道が取り持つ縁として、私もこの東海道から大きな縁をいただいています が 今回のこのハプニングには驚きました。これも、午前中に曽我兄弟の墓前参りをしたことが通じたのかもしれません?

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     ▲
  外川さん(大磯)のとりもちで
  目出度く 伊東さん(品川)雲林院さん(関)と仲直り

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