2月のイベント情報

第102回大磯市
     2月17日(日)  9:00 ~ 14:00
              ○会場:大磯港
  ★大磯市へのエントリーの受付期間は
    2月1日(金)~4日(月)です。

大磯の梅の名所を訪ね食事を楽しむ
       22日(金)   9:30 ~  13:30
              ○会場:旧吉田邸・藤村邸他

2019年2月14日 (木)

気候のせいにしておきましょう?

先週から今週に掛けて温度差の乱高下が大きく体調に異変が生じています。
異変ほどではないのでしょうが、何となく頭が「ボー」としていてふらふらします。
立ちくらみ ありません!
血圧が上がった?下がった? ありません!
めまいも、熱も ありません!
風邪の症状は全く無しです。

仕事を追いかけているつもりでやっているのですが、目先の事業が目白押しで追われている感覚があるのは事実です。
この気持ちの持ち方の差って大きいんですよね。
これがストレスを溜め込まない極意と思っているんですから、このリズムが狂うとこうした変調につながるのでは?そしてこの温度差の乱高下が重なればなおのことかも知れません。

年々こうした変化への対応力が無くなってきます。
別に「ボー」と仕事をしているわけではありませんが、チコちゃんの「ボーっと生きてんじゃねーよ!」との言葉が届いてくるようなこの一週間でした。

【大磯今昔・休み前総括】(Vol.181)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【18.12.31】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
2018年度、最後の日になりました。
大掃除に忙しい方、終えてゆっくりテレビや本を読んでる方達、それぞれの時間をお過ごしかと思います。

2015年5月22日から、月曜日「大磯今昔」のあこちゃんを担当してきました。
今日を以てしばらくお休みをいただくことになりました。
終了では有りません、何故かというと、スタートしました時、「大磯の別荘」には、219名の著名人が掲載されています。
しかし約3年7か月で、語れたのは70名ほどでした。
1人1回の投稿ではすみませんでしたので、一番回が多かったのは、澤田美喜で12回、伊藤博文・島崎藤村が11回でした。
まだまだ語りつくせません。

今回のお休みは、今まで語ってきた方達の、文章の変換ミスや、写真の添付ミスを含めて、1度見直したいのです。
更に、垂れ流し(すみません言葉がきれいでなくて)的になっていて、修正と校正を加えて、少しまとめてみようと思います。
投稿しながらでもと考えたのですが、実はこの投稿がきっかけで、今年の4月からタウンニュースの大磯・二宮・中井版に「明治150年記念連載~大磯歴史語り」毎月第2週・第4週に実名で投稿されるようになりました。

どちらも中途半端になる訳にはいきませんので、こちらは永遠では有りませんので、期限が有りますので、それが落ち着きましたら、又復帰も考えてみます。

ここで大磯に関して皆様に確認です。
(名誉町民)第1号吉田茂。第2号安田靫彦(まだ語ってません)。第3号曽根田恭男。第4号高橋誠一郎。第5号島崎藤村。第6号澤田美喜。第7号大隅良典(まだ語ってません)

(文化勲章受章者)①昭和12年佐佐木信綱。②昭和23年安田靫彦。③昭和25年正宗白鳥(まだ語ってません)。④昭和26年中村吉右衛門。⑤昭和29年鏑木清方(まだ語ってません)。⑥昭和44年獅子文六。⑦昭和52年山本丘人(まだ語ってません)。⑧昭和54年高橋誠一郎。⑨平成15年加山又造。 イタリア文化賞、矢代幸雄(まだ語ってません)
(総理大臣経験者)第1代・伊藤博文(5,7,10代)。 第3代・山縣有朋(9代)。 第8代大隈重信(17代)。 第12代西園寺公望(14代)。 第18代・寺内正毅。 第19代原 敬。 第24代加藤高明。 第45代吉田 茂(48,49,50,51代)。全て大磯に居を構えた方達です

まだまだ素晴らしい方達の足跡が有ります。
では、今しばらくお休みを頂きます。

2018年本当にFBをご覧いただきありがとうございました。
2019年も素晴らしい仲間たちが投稿します。引き続きよろしくお願いします。

※今回もって大磯今昔は私のブログも一度終了させていただきます。

2019年2月13日 (水)

【大磯今昔・大隈重信の生家】(Vol.180)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.24】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今年も今回の投稿が終わると、後1回になりました。

そして、大磯邸園の公開も今日が最終日です。
邸内のご予約は無理でも、庭園はまだ間に合います。14時30分までには、現地にお入りください。
今後の予定は、まだたっていませんので、是非ご覧になってください。

213_vol1805今回はこの公開の舞台になりました、大隈重信の生家・記念館の報告をしたいと思います。
大隈は維新の前まで、薩長(現・鹿児島県・山口県)・肥前(現・佐賀県)として素晴らしい活躍をしていましたが、大隈の藩主である・鍋島直正は大隈の進言を聞かず、一歩引いてしまったことから新政府は薩長の時代へと突き進むことになりました。しかし大隈自身の評価は素晴らしく、その業績を綴ります。

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大政奉還によって幕府が崩壊し、長崎奉行が仕事を放棄し長崎を去った後、諸外国の事情や文化に詳しい大隈が外国との折衝を一手に引き受け、様々な問題を公正厳密に処理しました。
この仕事は本来、長崎に在籍していた各藩の合議によるものとされましたが、実際は大隈のもとに集中するかたちとなり、その働きぶりが認められ、大隈は新政府での国造りに携わることとなります。

長崎での仕事に忙殺される大隈のもとに、新政府から「江戸・横浜に御用有り」と呼び出され、途中大阪に立ち寄るように指示されました。
これが折から、キリスト教宗教問題の教徒処分に関して、英国を始めヨーロッパ諸国から激しい抗議が寄せられていました。
その代表が、英国公使ハリー・パークスでした。
31歳の大隈は各国公使連合との談話会議に参加し、欧州で起こった宗教戦争の歴史に触れ、日本政府が主導して解決すべき問題であると主張して、パークスと一歩も引かない議論を繰り広げました。この1件により、大隈の外交手腕がますます注目されました。

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32歳で上京すると、築地に構えた大隈邸は梁山泊と呼ばれ、伊藤博文・井上馨など当時の豪傑たちが訪れ、連日連夜賑わいました。
上京後、大隈がなした偉業は数多くあり、代表的なものとして偽造や劣化の激しかった通貨を円形に改め、4進法から10進法に変えたこと。
そして、鉄道の新設も大隈の役割が大きいです。

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国会開設建議に端を発した明治14年(1881)の政変での下野からも解るように、その急進的な発想は対立する薩長政府などから幾度となく非難されたが、現代の私たちの暮らしをみても、大隈の発想の斬新さや、成しえた功績は大きかったことが実感できます。今回はここまで。

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写真は、生家の中や、お父様が亡くなった後、母三井子は大隈を厳しく育てたことで有名な「ごっつん柱」、銅像は早稲田の大隈講堂の回廊に本物が有りますが、普段は見れません、記念館前にレプリカが立っています。アカデミックガウンは、記念館の2階踊り場に、レプリカですが有りました。当時義足は、5本ありましたがその1本が記念館に飾られていました。

2019年2月12日 (火)

【大磯今昔・澤田美喜記念館2】(Vol.179)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.17】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
年内も残すところ、後2回です。4年もの間、本当に有難うございました。

皆様の心に響くご案内が出来ているのか、日々悩みながらの4年間でした。
「大磯今昔」というタイトルで始めましたので、正直気苦労も多かったです。
皆様のおかげで、何冊いや何十冊、いやなん百冊の書籍、何十か所大磯と関わりのある方を、日本中を訪ねる日々でした。
その励みも皆様が見ていて下さるので、苦しくも楽しい日々でした。
観光協会の他の仲間達はこれからも沢山の情報を伝えてくれますので、更に楽しみにして下さい。

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今回は6月に長崎・島原・天草が潜伏キリシタンの世界遺産登録をされたことで、前回ご案内しました、澤田美喜記念館も俄かに賑わいを見せています。
何故かというとあれだけの「隠れキリシタン」の収蔵物が長崎には有りません。
ここで、潜伏と隠れという言葉が気になりますが、大きなくくりは、「潜伏キリシタン」です。
隠れキリシタンはその中に入ります。

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更に禁教が解かれた後に、袂を分かつようにカトリックに復帰せずにそのまま今までの、仏像或いは偶像信仰を続けながら、信仰をつづけた方達を「隠れキリシタン」と言います。
その収蔵物の展示記念館が澤田美喜記念館です。

11月の末に3日間程ですが訪ねてきましたのは、澤田美喜が収集するために歩いたであろう、長崎・大浦天主堂(拝観料・千円)展示館も今までよりだいぶ増えました。
外海地区は、「沈黙」の映画で有名になりました、遠藤周作記念館(彼は、澤田美喜と面識があり、澤田美喜記念館の建設趣意書にお言葉を頂いています)、そこに行く途中に黒崎教会、更に進むと日本に3か所しかないと言われている、「キリシタン神社の一つの枯松神社」神社の中には、神父のお墓が有り隠すように、祭壇が有ります。

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神社に登る入り口には、杖が何本も置いてあり険しい登りで、途中に祈りをささげた岩場も残っています。
島原の乱が有った、「原城跡」も行って来ました。

記念館にも、天草四郎時貞を描いた掛軸が有ります。
その掛軸の真ん中に天草四郎時貞が描かれ、胸に十字架が有り、背後に彼を支える武士の兜にも十字架が描かれています。
先日、天草から記念館にいらした方がいて、何故こちらへの問いに、展示物の多いことを聞いて見にいらしたとの事です。

是非皆様にもご紹介したいと思います。又、長崎歴史博物館にも行って来ました。
長崎奉行が長崎の鋳物師・萩原祐佐に作らせた踏み絵も見てきました。
記念館にも有りますので、ご覧下さい。キリシタン禁教令が出されたのは、1612年(教科書には1614年説有り?)では、解かれたのは何時で、明治維新に何が起きたか、ご存知ですか?

実は最後の弾圧が有ったのは、明治維新です。
明治天皇を神格化したことで、キリスト教の神は要らないということで、最後の弾圧が有りました。

212_2vol1794そんな折、明治4年に岩倉使節団がヨーロッパを廻り、幕末に結ばれた不平等条約の締結の修正に行きましたが、日本よりヨーロッパの方がこの弾圧が伝わっていて、そんな野蛮な国と条約の修正の話などできないということで、ことごとく失敗に終わり、岩倉使節団は1度帰国して、伊藤博文達とこのことについて話し合い、明治6年に完全に禁教令を解きました。

次回に詳しくお話しますが、明治維新の時、このキリシタン弾圧について、イギリスのパークスとの交渉をしたのが、大隈重信です。
この旅で、佐賀県にも行き、大隈重信生家と記念館に行ってきたお話をしたいと思います。
写真は、大浦天主堂や枯松神社、原城跡・黒崎教会等です。

2019年2月11日 (月)

【大磯今昔・澤田美喜記念館1】(Vol.178)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【18.12.10】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回は、今新聞やテレビ報道で話題の大磯駅前に有ります、澤田美喜記念館に収蔵されていた「キリシタン信仰画」が、16世紀末の安土桃山期の作品である可能性が高いことが解りました。
当時の信仰画は残っているものがごくわずかで、国内に信者が増えた時期の信仰の姿を伝える貴重な資料とみられます。

記念館によると、和紙に墨で描かれた巻物で、縦22センチ、横約320センチ。
「受胎告知」や、「受難」「聖母の戴冠」など15の場面があります。
ラテン語の祈りの言葉も仮名で書かれています。
記念館と共同調査をした横浜歴史博物館によると、文字の書体や描かれた風俗には、江戸時代より前の特徴があるといいます。記念館が外部の研究機関に放射線炭素を用いた年代測定を依頼したところ1556~1633年に作られた紙との結果が出ました。

皆様は、澤田美喜がエリザベス・サンダースホームの設立者ということは、ご存知の方が多いと思います。
昭和23年に当時戦勝国の男性と、敗戦国の女性の間にできた子ども達を育英された素晴らしい方です。

211_1vol1781その設立より以前の昭和11年から、隠れキリシタンの収集家でした。
何故かというと、この弾圧の時期に信仰をかえず守り続けた人達の事を後世に伝えたいという強い意志が有ったからです。
その収集物が現在は872点、季節やテーマをかえて三分の一ずつ公開されています。

あこは月に10日ほど記念館の館内のご案内をしています。
現在はこの事や、6月に長崎や天草が世界遺産登録をされたことで、沢山の方がご来館して頂いています。

先週私も長崎や島原に行って来ましたが、明治150年にもつながる多くの歴史をこの目で確認してきました。
そんなお話も語ります。
そして記念館での発見はこれだけにとどまらないと思います。

(※この記事は昨年12月時点の記事ですので、ご注意ください!)

211_1vol1782今回、横浜歴史博物館でのコラボで、いくつかの理由が有りますが、320センチある巻物を展示するスペースが残念なことに、記念館には有りません。
本物を見て頂くには1月14日までに、横浜歴史博物館で見て下さい。

それ以外にも展示が有りますが、それは記念館に戻ってきますので、是非ご来館ください。
そして澤田美喜は、岩崎弥太郎の孫にあたり、記念館やエリザベス・サンダースホームがあるあの地は、2代目の弥之助がお母様の美和さんの為の養生所を建てるべく明治20年代に別荘地を購入しました。その後美喜の父である3代目・久弥が相続しました。

記念館に通じる鐘が下がっている塔は関東大震災で倒壊した建物の廃材で出来ています。
その下には、キリシタン灯籠が有り、記念館までの階段は26本の十字架をかたどった鉄柱です。
横浜歴史博物館へは、横浜駅から地下鉄で「ブルーライン」に乗り「センター北」で降りて下さい。
写真は記念館周辺の写真です。では次回。

2019年2月10日 (日)

【大磯今昔・セシール・メンデルソン婦人】(Vol.177)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.12.03】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
前回の投稿で、「大磯今昔」のあこちゃんは、年内を以てしばらくお休みをいただきますと、お知らせしましたところ、何件かの年内語ってほしい方のリクエストが有りました。できうる限りお答えします。

その第1弾として「セシール・メンデルソン婦人」を語ります。
ただ2年ほど前に、澤田美喜を語りました時に、ご案内はしています。
「大磯今昔」はスタートしてから約4年、当初からの読者の方はまだ少なかったと思います。

では早速、セシール・メンデルソンとは誰?と思っている方は多いのではないでしょうか?
明治5年9月に、東京から横浜まで、鉄道が引かれました。反対が多かった中、大隈重信が世界状況を鑑みて少しでも早く鉄道を引くことを提案し、伊藤博文らと進めました。
鉄道に関してはイギリスをもとにして作られました。
その時に、イギリスから来た鉄道技師の、ダンカン・グレーを父に、母は信州・伊那の豪農の娘、福沢?の間にできた、人前による国際結婚をした方の一人娘が、セシール・ダンカン(日本名・福沢せい)後に結婚して、セシール・メンデルソンになります。
その方の事は、獅子文六の小説で「アンデルさんの記」に描かれています。
リクエストされた方は、澤田美喜が設立した「エリザベス・サンダースホーム」との関わりがお知りになりたいんですね。

彼女は、明治25年療養の為に、当時照が崎海岸に作られた現代でいうリゾートホテル「祷龍館」に約1年近く療養をしていました。
18歳の時です。
明治39年に貿易商であるメンデルソンと結婚、大磯に別荘を構えます。
旧西園寺公望邸から、現在は大磯松韻と呼ばれている高級住宅地(前・4代目清水満之助別邸跡)の間約3千坪の別荘地を収得、米寿のお祝いを城山公園の中に有りました如庵で開かれたとか?
そんな中、約13年間もの間、エリザベス・サンダースホームにボランティアとして手弁当を持ち、ホームの子供たちのお世話をした方です。
彼女が語るには、「自分は両親から望まれて生まれたけど、この子たちはつらい思いで過ごしている、何とか愛情を注ぎたい」と、しかし、愛情の注ぎ方が澤田美喜とは違っていました、そのことから2度とホームには来ないでほしいと断られてしまいました、それも当時の司祭から澤田からの伝言として言い渡されます。
原因は、子供達がある年齢に達すると、お金の使い方を教えるために買い物に子供達を連れていった時の事です、1人の子供が今でいう万引きをしてしまいます。澤田がとった行動は、警官に来てもらい、その子を警官の前に連れていきました。悪いことをするとどうなるか、澤田は徹底的に教えたかった。ホームを卒業してからの事を思うと、澤田は厳しくすることで世の中のルールを教えたかったのです。

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でも、メンデルソンは優しいおばあちゃんでした、お金が足りないと言えば渡してしまう、そんな優しさが一杯のおばあちゃんだった。それを知った時澤田は言ってはいけない一言を、「あなたは子どもを育てたことがないから」確かに、メンデルソンには子供がいませんでした。子供は優しさだけでは、いけない事を、澤田は憎まれ役もやりながら子供の成長を見届ける責任が有る事を、彼女に伝えたかったのだと思います。
そんなことが、実名で書かれたのが、「アンデルさんの記」です。
是非続きをお読みください。
 

2019年2月 9日 (土)

【大磯今昔・宰相の総括5】(Vol.176)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【18.11.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回で総括は最終回です。
山縣有朋を語ります。

山縣有朋は天保9年(1838)の生まれで、維新の功労者であり、陸軍の創設者、日清・日露の功労者で元帥・第3代・9代の総理大臣、及び元老として軍部・政界に絶大な権力をふるいました。

20歳の時に松下村塾に学び、尊王攘夷の考えを持つようになります。
高杉晋作率いる奇兵隊に入り、軍監となり第二次長州征伐の幕府軍とたたかい大いに手柄を立てます。

王政復古に続く戊辰戦争が終わった明治2年、山縣は兵制の調査・研究にヨーロッパ視察に出かけ、この結果「各藩のバラバラな兵制では、統一国家は出来ない」と明治政府に進言、山縣の意見を取り入れ、明治6年(1873)徴兵令を出しました。
その時、協力を求められたのが、わが大磯に始めて海水浴場を開設した松本順が初代・軍医総監として参加しました。
この徴兵の軍隊が認められたのが、西南戦争でした。西南戦争の翌年、政界の実力者・大久保利通が暗殺され、〝維新の三傑と言われた西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允が亡くなり、政治の実権は伊藤・山縣らに移っていきました。しかしまだこの頃は陸軍の山縣では有りましたが、政治家としての山縣にはなっていませんでした。

明治18年、日本で最初の内閣が出来た時、山縣は内務大臣になり、明治22年に第3代総理大臣になります。又、彼は普請道楽でも有名でしたが、その中でも、「椿山荘」「無鄰菴」「古稀庵」は有名ですが、わが町大磯では明治20年から古稀を迎える明治40年まで、現在は大磯中学校が有ります地に、第5代軍医総監・橋本綱常に足関節炎の治療に、大磯の地を勧められ、長きにわたり住まわれました。

今回、明治150年記念大磯庭園の公開で、ガイドツアーに参加したところ、陸奥邸の邸宅の中に、飾られている写真にハンモックに寝る山縣と、側に陸奥宗光が家族でしょうか?何人かの人と過ごしている写真が有りました。
そんなのどかに過ごしている大磯は、当時は多くの政治家や、文化人が過ごした政治の奥座敷としての役割を果たした町だったのです。

今回を以て、8人の宰相の総括は終了です。
約4年間1度もお休みをしませんでしたが、「大磯今昔」のあこちゃんの全体の総括をさせて頂き、少しお休みをいただこうと思います。
何方か、語ってほしい方がいらしたら、今月挑戦してみます。
大磯に住まわれていた方であれば、リクエストください、お待ちしています。
ただし、年内いっぱいです。
明日から2~3日世界遺産登録後の、長崎・島原を訪ねます。
澤田美喜の事も少し確認してきます。
写真は、現在の大磯中学校・栃木県矢板にある古稀庵です。

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2019年2月 8日 (金)

【大磯今昔・宰相の総括4】(Vol.175)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!

【18.11.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
総括第4弾、原敬の続きです。

大磯では、あまり彼の存在感は少ないのですが、歴代の総理大臣を務められた方達からも認められ、新聞(平成2年の日本経済新聞)歴代政治家10傑の第1位原敬。
雑誌(平成12年・月刊現代)「20世紀最高の内閣」の総理大臣・原敬と。
吉田茂も、「人間吉田茂」の中で語っていますが、「原敬日記を読んだのですが、~中略~伊藤巳代治や山縣有朋などうるさ型がいてさぞやりにくかったろうなと思うが、原さんはその間をぬってよく仕事をやられた、えらいと思います。」などと語っています。

原は、明治29年6月に大磯・南下町に別荘地を年5円で借り受けたのは、恩人である陸奥宗光の体調が悪くなったことが要因です。
いつでも陸奥に会いに行けるようにと借り受けました。
建物は、簡素な木造2階建ての和館です。
当時は西湘バイパスが有りませんから、とてもよく海が見えたと思います。
しかし残念なことに、陸奥が翌年8月に亡くなってからは、大磯の別荘はそれほど活用しなくなりました。

原が、本格的政党内閣を組織したと言われる所以は、陸・海軍大臣と外務大臣以外は、すべて政友会の党員から大臣を選び、日本で初めての本格的な政党内閣を実現しました。

藩閥や軍部とはまったく関係なく爵位を持たない平民出身原首相の登場に、人々は彼を平民宰相と呼び、大変な期待を持って迎えました。この期待の中、教育の改善、交通・通信機関の整備、国防の充実、産業・貿易の奨励の、四大政策を掲げてスタートしましたが、実際は、国民が期待するほどの成果はあがりませんでしたが、絶対多数をほこる政友会を背景に思う存分な政治を行いました。ただ国民の心とは少しずつずれが出始めていた、そんなさ中、大正10年(1921)11月4日、一青年の凶刃に倒れ、66年の波乱な人生を閉じました。

彼が書いた「原敬日記」は20歳の時から、暗殺される当日の朝まで書かれ、吉田も総理大臣心得として読むように、後の人達に伝えています。次回は、山縣です。
写真は、盛岡の菩提寺です。

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2019年2月 7日 (木)

里山ウオークin大磯2019

0207毎年、秋に実施している事業ですが昨秋は明治記念大磯邸園事業の開催に伴って、この時期になってしまいました。作業も大幅に遅れていて焦っています。

大磯町の観光事業も含めて、どちらかというと東地区で開催に偏っています。
そうした一面から、この事業は大磯町西地区の魅力を再発見していただこうと実施しています。
地元の方々の大きな協力もあります。ですから単に観光協会が単に主催している事業と異なって地域の方々と共に作り上げてきた事業です。
それだけにもっと時間も掛けて、じっくりと仕上げていきたい事業なのです。

今年は、みかん畑と富士山・丹沢大山の眺望を楽しみながら目の前にやってきている春を発見する散策コースと国府祭ゆかりの六所神社を中心に王福寺、蓮花院やその他の古寺を訪ね旧東海道松並木と一里塚をめぐって悠久の時を楽しむコースの2コースを設定しました。
春を目の前にした大磯で散策を楽しんでみませんか?

◆参加費:一人500円 中学生以下は200円(参加賞あり)

◆申し込み:はがきに参加者全員の住所・氏名・年齢・電話番号を明記の上、下記へお申し込みください。
〒255-0003大磯町大磯878-1
(公社)大磯町観光協会 里山ウォーク係
※観光協会ホームページからも申し込みできるように準備中です

2019年2月 6日 (水)

「七賢堂」が特別開扉

県立大磯城山公園の旧吉田茂邸地区内にある「サンルーム」「七賢堂」「兜門」の3件が国の文化審議会が登録有形文化財(建造物)に登録するように文部科学大臣に対して答申しています。

【次の内容の記事は2018年11月16日、神奈川県記者発表資料の抜粋です。】
(所在地)中郡大磯町国府本郷
(所有者)神奈川県
(建築年代)サンルーム:昭和38年、七賢堂:明治36年頃/昭和35年移築、兜門:昭和29年
(数量)3件(1箇所)
(特徴等)大磯海岸沿いにある政治家・吉田茂の旧邸。サンルームは、主屋西北隅に建つ。吉田五十八(よしだいそや)の設計で、細身の鉄骨材による骨組や軒を曲面としたポリカーボネイト屋根等、現代的な材料を繊細な意匠でまとめる。
七賢堂は、内庭の一角に西面して建つ。伊藤博文旧邸から移築し、当時は近代の元勲を祀っていた祠堂(しどう)。二間四方の入母屋造(いりもやづくり)銅板葺で、正面は虹梁(こうりょう)を通して桟唐戸(さんからと)風の引戸を入れる。良材を用いた丁寧なつくりの小堂。
兜門は、前庭の内庭を画し、北面して建つ。寄棟造(よせむねづくり)檜皮葺(ひわだぶき)で、裏千家今日庵(こんにちあん)の兜門に倣った上質な意匠をもつ数寄屋(すきや)建築。【ここまで転載】

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今週の3連休にその内の一つ「七賢堂」が特別開扉されますので、是非、ご覧になってください。

 ○開 扉 日:2月 9日(土)~ 2月 11日(月・祝)
 ○開扉時間:10:00~16:00
 ○場  所:大磯城山公園 旧吉田茂邸地区 七賢堂

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