9月のイベント情報

大磯今昔写真(水彩画イベント)(事前申込)
    9月15日(土) 9:30 ~ 13:00
       ○会場:鴫立庵

 

第97回大磯市(今月まで夜市)
      16日(日)17:00 ~ 20:30
       ○会場:大磯港
  ★エントリーの受付期間は9月1日(土)~4日(火)です。

 

旧安田善次郎邸十五夜観月会(事前申込)
      24日(月)17:00 ~ 20:00
       ○会場:旧安田善次郎邸

2018年9月19日 (水)

【大磯今昔・鈴木梅四郎2】(Vol.115)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【17.09.04】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
前回に続き、今回も鈴木梅四郎です。(敬称略)

今回は、大磯での功績を中心にお話をします、何故かというと、彼は「医療の社会化」という、庶民を医療費の重圧から
解放する為に国や医学界を相手に戦った方で、その業績は素晴らしいものが有りますが、それを語るととても大変なので、大磯での業績だけでも、本当に驚嘆すべきものが有りますので、その事を中心にお話していきます。

育英事業として、29歳の頃から、自分の俸給の二割をさいて苦学生を養育されました。
その門下生百余名の浄財をもって、妙大寺の境内の胸像・顕彰碑が建てられました。

昭和3年(1928)に有志と計り大磯研究会を組織し会長として、大磯の遺跡保存・町功労者の顕彰碑建立、文化・教育・観光事業に尽力されました。

昭和天皇御大典を記念して大磯小学校に鈴木賞をもうけ学業優秀・品行方正・体格優良な児童5名に腕時計を贈り、教育の振興をはかられました。

昭和4年に松本順先生(海水浴発祥の地としての大磯を広めた方です)の謝恩碑建立の募金を募り、照ヶ崎海岸に建設されました。「松本先生謝恩碑」の題字は犬養毅(つよし)、碑文は鈴木梅四郎です。

又、大磯小学校の校長を助けて、岩崎邸の農場を譲り受けて運動場の拡張を行いました。(昭和19年11月3日から運動場として使用するようになりました~菱陰広場と名付けられました。)

又、千畳敷(現在の湘南平)へのハイキングが多くなったので楊谷寺谷戸の山水を自費で鉄管を敷設して水を引き大磯駅裏の山手を通して千畳敷迄引水して登山者の用水の便を計りました。
この事業は、大磯町の観光事業として驚嘆すべきことで、大磯の為に大いに尽くされた方です。

残念な事に、昭和15年(1940)4月15日、急性肺炎の為78歳で亡くなりました。
ご冥福をお祈りします。
夫人(阿虎~おとら)と妹君も人望が高く、大磯婦人会会長を務め、戦中・戦後活動に尽くされました。

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写真は、謝恩碑・大磯小学校~題字は吉田茂です。
現在も残っている旧鈴木邸の銀杏の木~10メートル以上は有ります。

【大磯今昔・鈴木梅四郎1】(Vol.114)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【17.08.28】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、鈴木梅四郎を語ります。(敬称略)

彼は、大磯町で多大な貢献をしている方のお1人です。
鈴木梅四郎は、文久2年(1862)に長野県安茂里(あもり)村 (現長野市安茂里)鈴木龍造の次男として生まれました。

明治14年(1881)に上京して慶應義塾で学び卒業後、横浜貿易商組合の顧問、横浜貿易新聞の経営、この後に、彼は明治27年(1894)に三井銀行に入行しますが、それは中上川彦次郎(この方も大磯に住まわれていました)が三井入りし、三井銀行の大改革に着手することになり、そこで、慶應義塾出身者、特に新聞記者経験者を集めようとして、鈴木梅四郎に白羽の矢が立ち、彼は三井銀行に入行します。

彼も、苦学生の時代が有り、慶應義塾を卒業してから時事新報社に入社、これは福澤諭吉の愛弟子として育てられ、在学時代は学費不足を補うために、福澤の紹介で時事新報社でアルバイトをしていて、当時社長だった中上川彦次郎との縁で、時事新報社に入社したのでした。

明治24年(1891)に福沢の推薦で横浜貿易商組合の顧問となります。
この時から彼はお給料の2割をさいて明治34年(1901)から大磯の自宅に「晩成社」(一説では横浜説もあり)を設けて中学優等卒業者の中から資金の許す限り収容して、自宅より専門学校に通学させて、大成を期しました。
若い頃の自分と重ね合わせたのでしょうか、苦学生たちを養育されました。
その時の門下生百余名の浄財で、妙大寺の本堂・左横に胸像が建てられました。

明治39年(1906)に東小磯大門に別荘を持ち、大磯の名士を招き、盛大な園遊会も催されました。
この後まだまだ大磯でのお話が続きますが、今回はここまで。

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写真は、その東小磯のお住まいに素晴らしいシンボルツリーになっている銀杏の木が、有ります。
現在の住人の方に許可を頂き銀杏の木を掲載させて頂きました。
そして妙大寺胸像も載せました。

2018年9月18日 (火)

藤沢FM放送、愛称「レディオ湘南」

昨日ですが藤沢FM放送、愛称「レディオ湘南」で(公社)大磯町観光協会として明治150年事業等についての取り組みについておしゃべりする時間をいただき、藤沢のスタジオに行きました。

この番組に月1回のレギュラー番組を持っている観光協会役員、森川さんの出番の日です。
その出番に併せて時間をいただきました。

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明治150年に向けて全国各地で色々な整備が進められる予定です。

「明治記念大磯邸園」とは?

伊藤博文は、明治憲法の起草など我が国の立憲政治の確立に最も活躍した人物のひとりであり、滄浪閣の本宅を構え、この滄浪閣の隣には旧西園寺公望邸跡があり、近くには大隈重信邸・陸奥宗光邸も当時の姿を留めて、これら立憲政治の確立に重要な役割を果たした先人の建物が集中して残っていることは希有な地区。それが大磯です。

そして「明治150年」関連事業として、明治期の立憲政治確立等に関する歴史的遺産の一体的、有機的な保存・活用を図るため、旧伊藤博文邸等を中心とする建物群及び緑地を整備していく計画が「明治記念大磯邸園」です。

観光協会としては、明治150年用のフラッグやマップ等については、来月に「明治記念大磯邸園」の整備に向けて先行公開される時期に合わせて準備をしていますが、まだまだ詳細が分からずにインフォメーションが出来ない状況です。
多分、近日に国の方からプレリリースがあるはずです。

収録かと思いきやいきなり打合せなしのライブです。と。
ライブとあっては編集が効きません。
それでも楽しい20分間を過ごさせていただきました。

2018年9月17日 (月)

【大磯今昔・地福寺】(Vol.113)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【17.08.21】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、地福寺です。
先日、「真夏の散歩道」でも、取り上げましたが明日は、「藤村忌」が有りますので、是非読まれたら確認しに地福寺に足を運んで下さいね。

地福寺は、船着山地福寺と称し東寺真言宗の古刹(意~古い寺~読みはこさつ)です。
承和3年(837)空海の弟子、果燐の創建と言われています。

町指定・有形文化財の木造弘法大師坐像が本尊で胎内に墨書銘が有り、天文11年(1542)佛師但馬作とあります。右手に五鈷杵、左手に念仏を執って坐す通形の弘法大師像。寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げの小ぶりな像です。作者・造立年のわかる室町時代の弘法大師像として貴重な作例です。

他に永禄2年(1589)と天正17年(1542)の文書2通があり、小田原北条氏から特別な保護を受けた資料で、共に大磯町指定の文化財です。

境内に島崎藤村夫妻のお墓が有ります。
お友達の天明愛吉が離れに住んでいたご縁も有りますが、何故、境内地にお墓があるのでしょうか?
当時、境内地使用決定権は神奈川県知事に有りました。
昭和18年の神奈川県知事は、現在の長野県千曲市屋代の出身で、内務官僚・弁護士・もなさった近藤壌太郎の鶴の一声で、境内地にお墓が作られました。

藤村をとても尊敬していたと聞きました。亡くなられた当時は、土葬でした、7回忌に現在のお墓に改葬されました。
設計は、谷口吉郎(東宮御所・明治村・東京国立博物館等)で、3大墓所の一つで、山口県の森鴎外・鎌倉の吉江信子と、こちらのお墓です。

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後に、静子夫人のお墓が隣に作られましたが、遺言であったと聞きますが、静子夫人はクリスチャンでしたので、家族もあきられていましたが、住職の深いお心で、隣に作られました。

藤村の遺爪・遺髪は菩提寺の馬籠の永昌寺に分葬されました。
お墓の壁面の石垣は、小諸義塾に勤務していたころ暮らしていた、小諸の懐古園の石垣にとても良く似ています、その事も、こちらにお墓を作って欲しい大きな要因だったと思います。

ここからは、地福寺へえ~話です。藤村が、友人天明愛吉を訪ねてきた道は実は、大磯駅前の「ほっこり」の隣の美容院の脇に、20段ほどの階段がありますがそこを通り、地福寺のお墓の1番奥に通り道が有りそこを通って来ていたとか、その写真を2枚(昭和25年に閉鎖されました)、静子夫人のお墓の側にお地蔵さまが沢山ありますが、其の2体が突いている鉄の棒に、十字架が彫られています。
そこも謎です、見つけて下さい。写真を撮りました。

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明日の法要は、午前10時からです。法要・回向が終わりましたら、献花・献香があります。(お花も、お線香も観光協会で準備しています)今年は、本堂前にて行います。(雨天のみ、本堂の中です)、お待ちしています。

では、次回。

2018年9月16日 (日)

9年目を迎えた「大磯市」

2010年9月に記念すべき第1回目の「大磯市」を始めました。
こんなところで「市」「マルシェ」を初めてどれだけの人が来るの?
始めた頃は辛辣な批判も多く受けてスタートした「大磯市」ですが、何とか9年目のスタートを切ることが出来ました。

2018年の夏はとても暑い夏でしたというのが感想です。
今夜はその夏を惜しむような最後の「夜市」でした。

開始と同時に芝生広場は大入り。
最後までゆっくりと楽しんでくれたようです。
今夜も約5,400人ほどの来場者がありました。
感謝!感謝!です。

来月から昼間の開催になります。
秋晴れの下で明治150年がらみの事業の共催も予定しているので開催したいものです。
最近、スマホの経年劣化が進んだのか写真がぼけて撮れます。
見にくくて申し訳ないですが賑わっている様子は伝わるのでは?

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2018年9月15日 (土)

大相撲秋場所7日目の稀勢の里

進退を懸けた横綱稀勢の里の大相撲秋場所の7日目。
序盤の5日間を凌いで凌いで5戦全勝で乗り切り中盤戦に臨んだ昨日は前頭2枚目千代大龍に土をつけられ今日の一番を心配していました。
ただ、初黒星も立ち合いは頭からいって前に出たのですがタイミングの良くいなされただけに、余り後を引くような負け方でなかっただけに?とは思っていましたが。

今日も相変わらず土俵を沸かせてくれました。
攻勢の中で、良い意味で沸かしてくれるのであれば良いのですが「心配で見ていられない薄氷の土俵」で沸かせてくれるのですからファンはたまったものではありません。
今日の土俵でも悲鳴の中での勝ち名乗りでした。

そして、同じく6日目に初黒星を喫していた関脇御嶽海も貴景勝を突き落として1敗をキープして大関とりへ再び勢いをつけました。

今場所は3大関3横綱は安定をしています。6人で7日目を終わって38勝4敗です。
【7連勝】鶴竜、白鵬、高安、北勝富士
【1敗】稀勢の里、豪栄道、御嶽海、竜電
【2敗】栃ノ心、阿炎、朝乃山、貴ノ岩、嘉風
折り返しを前にこれだけの大勢の連勝、1敗の力士が揃っていることは最近なかっただけに今場所は充実しています。
中盤戦から後半は調子の良い上位陣の星の潰し合いの好取組が増えていくので楽しみですね!

【大磯今昔・真勝寺】(Vol.112)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
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 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【17.08.14】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、前回でご紹介した守公神社と同じく国府祭の時にご紹介されることが多い、総社・六所神社の別当寺の真勝寺について語ります。

0915vol112場所は、馬場公園から守公神社に向い裏手の高台にあります。
相府山・遍照王院・真勝寺は古義真言宗東寺派のお寺です。
寺伝によると、天平の頃、聖武帝・光明后の勅願(意~時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと。
寺格の1つ。読みは、ちょくがんです)があり、行基上人によって創建されたと伝えられています。「新編相模風土記稿」などに、相模国余綾国府(さがみのくによろぎこくふ)に属する国分寺として、又、六所神社の別当寺(意~神仏習合のころ、神社に付属する寺の事)であったと記録されています。

律令制の失われた中世以降の記録は定かでは有りませんが、治承4年(1180)富士川の合戦の帰路、源頼朝は当寺に入り、論功行賞などを行い、石橋山合戦(現在は鎧塚レストランが有ります)の折に敵対した大庭景親との記録も有り、当時街道筋における大寺であったことは、容易に推察できます。
これ以降、当寺は衰微(意~衰えて勢いが弱る事、読みはすいび)しますが、室町時代末期に真長法師(天文13年没~1544年)が力を尽くし中興し、江戸時代に入り徳川将軍代々の庇護を受け、寺領50石をうけ広い寺域を伝えながら現在に至っています。

ご本尊として祀られている如意輪観音像(もと観音堂のご本尊)は丑年ごとにご開帳が行われています。(あこは、前回の御開帳でご本尊様を拝観しました、因みにあこは丑年です、ごめんなさい関係なかったですね)

次回は、4年後です、是非いらして下さいね。
寺宝として数多くの画像・筆跡などが有りましたが、残念な事に大正元年の火災で焼失しましたが、わずかに残された仏像のうち薬師如来像は鎌倉時代末頃の作風、阿弥陀如来像は江戸時代初期の作、宝冠釈迦像は南北朝の頃の造像と思われます。

時代を経て、更に大火を潜りましたので、破損・補修がただあるのは、残念ですが残っていてくれたことに感謝です。

更に真勝寺近くには、国府が置かれ政務を執った役所(国衙)があったところ(現在で言う県庁)です。
前々回から、白岩神社、守公神社、と語ってきましたが大磯の西側、西小磯、国府地区が大磯発祥と言われる由縁がここにありです。
是非1度お参りして下さい。
写真は、真勝寺、本堂・本堂からの眺め(ロングビーチが見えます)・参道から本堂を見たところ。
では次回。

2018年9月14日 (金)

旧吉田茂邸「七賢堂特別開扉」

1868年に慶応から明治に改元された10月23日から今年は明治「明治150年」を迎えます。
国は旧伊藤博文邸などを中心とした建物群と緑地を「明治記念大磯邸園」として整備する計画が昨年度、発表されて来月、10月下旬からは一部の建物を含む対象区域を特別先行公開していきます。
来週中には詳細が発表されると思います。

そうすると、2009年(平成21年)3月に火災により焼失し、昨年の4月に再建された旧吉田茂邸も併せて脚光を浴びるようになるでしょう!

そして今月の22日は吉田茂の生誕日になります。
旧吉田邸の邸園にあった七賢堂は先の火災で焼失を免れました。

この七賢堂は、これまでも期間を限定して開扉し、中を見ることが出来ましたが、今年も22日から3日間特別に開扉されます。
開扉期間中はNPO大磯ガイド協会の方による説明もあります。

【七賢堂開扉期間】
 ○各日午前10時から午後4時。
 ○問い合わせは、大磯城山公園管理事務所
 ○【電話】0463-61-0355

0914ところで七賢堂とは?
元々、明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものでした。伊藤博文の死後、婦人により伊藤博文を加えた5人が祀られ、「五賢堂」となりました。昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、「七賢堂」となりました。
兜門やサンルームとともに、焼失を免れ、旧吉田茂邸の歴史を感じさせる貴重な建築物です。
正面の扁額「七賢堂」の文字は、佐藤栄作元首相が書いたものです。【七賢堂の項については大磯城山公園HPを参照しました】

是非、この機会に普段は開扉されていない「七賢堂」をご覧いただければと思います。

【大磯今昔・守公神社】(Vol.111)

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【17.08.07】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
早いもので、月曜日の「大磯今昔」を担当しましたのが、2015年6月22日から、約2年2ヶ月を迎えます。

初めてご覧になる方、つい最近から見て下さっている方は、何を基準に毎週進んでるのかと思っている方も、いらっしゃるかと思います。
やはり始めるのは、あ行からの人物と思い第1話は浅野総一郎さんから始めました。そして、現在さ行のしです。

大磯は凄いです、2年経ってもまだ「し」の行です。
ただ最近は、人物だけでなく史跡・建物のご紹介もしようとこの2か月は進めています。
そんな訳で、今回は5月5日の「国府祭」にはご紹介しますが地元の方以外は、大磯の方でも知らない方が多いのではと思います。

0914vol111「守公神社」を語ります。
守公神社の場所は馬場公園の近くです。
相模の国総社「六所神社」の主祭神・櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)の御父神・脚摩乳命(あしなづちのみこと)、御母神・手摩乳命(てなずちのみこと)が祀られています。

創建は養老2年(718年)4月8日、養老の律令制により国府祭が出来、総社六所神社の摂社(意~本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った総社の称。)として祀られました。

天文10年(1541年)に天下祭と称する国府祭の守護神となり、馬場(昔は警察機能を備えた「番場」と伝えられる)に奉還されました。

その後、大正6年(1917年)に無資格の神社を合併したとき、六所神社へ合祀して馬場の社殿は取り壊されました。
昭和26、7年に又戻すことになり、大磯駅前の岩崎邸の稲荷神社の社殿を譲り受けて、六所神社から御魂を移して遷座し、現在は宗教法人になっています。

では、次回に。
写真は、御社殿・由来書・鳥居です。

2018年9月13日 (木)

【大磯今昔・清水満之助】(Vol.110)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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【17.07.31】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
今回は、人物と場所も素敵なところのご紹介をします。(敬称略)
4代目清水満之助、その別荘跡(大磯のビバリーヒルズと呼ばれているところです)です。
(現西小磯字西柳原296)

では、清水満之助について語ります。
満之助は、3代目清水満之助が急逝(明治20年、享年34歳)し、8歳の長男喜三郎が4代目清水満之助を襲名しました。
生来病弱で昭和4年に50歳で亡くなるまで経営には余り係わる事は無く、結婚もしませんでした。

大磯の地は、明治33年頃西小磯西柳原28番地外の土地を別荘として購入、正門脇に家を建て、大磯署の巡査を住まわせました。
又、西隣の八阪神社を立て直しました。(その時に灯籠に清水の名が刻まれています)

別荘跡地は、三菱商事が購入し、設計施工はもちろん清水建設、更に街並みをデザインするスタジオランドジャパンという会社が加わり共同開発されました。

現在この地は約5000坪を、平成15年(2003)、区画数40、分譲地は「大磯松韻」と名付けられ、販売が開始されました。
「歴史のある大磯らしい住環境を将来にわたって維持したい」というコンセプトのもと、町との協議で「地区計画」「緑地協定」が策定され、家の周りは塀やフェンスを設置せずに植栽で整備する旨や、各家に1本以上の高木によるシンボルツリーなどを植えることが決められました。

この地を何故、ビバリーヒルズと呼ばれるようになったかというと、街並みに電線・ケーブルなどは共同溝による地中化を図る事で外には全くありません。(地下埋設形を取り入れてるからです)更に「星の見える街」海岸線の美観を街区に復活させ、保存樹木を活かした上でクルドサック(回遊式庭園道路)をもうけるなどし区画の平均面積は約300平方メートル以上当時で価格4千万から1億円で分譲されました。

1号線の入り口に「大磯松韻」という自然石を利用した標石が鎮座しています。
5月の観光協会主催のオープンガーデンはとても華やかです。来年は是非御来磯して下さい。
では、次回に。

写真は、八坂神社・灯籠に清水の刻印・1国入口に自然石の大磯松韻の名・電線が無い街並み・大磯松韻から境の通常の通りの写真です。

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