11月のイベント情報

第25回「大磯宿場まつり」
    11月 4日(日)10:00 ~ 15:00
       ○会場:山王町旧東海道松並木

明治150年「明治記念大磯邸園」と旧安田善次郎邸①
        8日(木)13:00 ~ 18:00(事前申込) 
       ○会場:明治記念大磯邸園&旧旧安田善次郎邸
       ※受付は終了しました。

大磯高麗山芸術祭2018
       10日(土)~11日(日)
       ○会場:高来神社境内

第99回大磯市
       18日(日)  9:00 ~ 14:00
              ○会場:大磯港
  ★大磯市へのエントリーの受付期間は
    11月1日(木)~4日(日)です。

明治150年「明治記念大磯邸園」と旧安田善次郎邸②
       22日(木)13:00 ~ 18:00(事前申込) 
       ○会場:明治記念大磯邸園&旧旧安田善次郎邸

2018年11月14日 (水)

【大磯今昔・新島襄8】(Vol.142)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【18.03.26】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
今回は、同志社大学設立から大磯で亡くなるまでについてお話します。

新島襄は「同志社大学設立を要する主意」をまとめ上げて明治16年(1883)、襄40歳の時から本格的にスタートさせました。
課題は設立資金調達です。
その為に、伝道活動と共に資金集めの為に全国各地を訪れ、彼は校長職にありながら殆ど学校にはおらず、伝道、募金活動の旅に明け暮れた生涯でした。
彼は、青年時代から“病魔の囚人”と言われ病気に苦しんだようですが、自分の健康を犠牲にしてまで伝道・育成事業に携わる壮絶な人生でした。それを支えたのは信仰に裏打ちされた強靭な精神力でした。

新島は、アメリカ時代から多くの人脈を作り上げています。
森有礼の紹介で、岩倉使節団、木戸孝允・伊藤博文・との親交を深め更に井上馨・大隈重信特に大隈邸で行われたパーティーでは、原六郎・岩崎弥之助・久弥・益田孝・澁澤栄一・大倉喜八郎等、蒼々たるメンバーが力沿いをしてくれました。
更なる募金活動に力を入れ勝海舟・陸奥宗光とも、徳富蘇峰の紹介で時の大蔵大臣松方正義へ、協力依頼をして頂きました。

そんな折、明治22年(1889)11月に前橋での募金活動のさ中、新島は倒れました。
そちらで病気治療をしていましたが、12月27日に蘇峰の勧めから大磯の旅館・百足屋に転移し身を横たえましたが、静養もそこそこに全国の伝道者に手紙を書き続けました。(蘇峰の考えの中に、大磯には今でいう医療付きのリゾートホテルのはしりというべきでしょうか、祷龍館という旅館が有り、当時澁澤栄一が宿泊している情報が有り、遺言ともいうべき最後の手紙は澁澤栄一にあてて書かれたものと言われています)

明治23年1月19日病状急変の電報が打たれ21日、八重・蘇峰・小崎弘道を枕頭に呼んで新島は遺言を述べ、蘇峰が筆記しました。1月23日午後2時20分、亡くなられました。
47歳でした。死因は「急性腹膜炎症」。

翌24日午前8時の汽車で、新島の棺は京都に向かいました。
翌25日、午前1時20分京都七条駅へ帰着し、自宅へ戻りました。
そして当初は、南禅寺(天授庵)に埋葬を希望していました、何故かというと横井小楠と長男・時雄の墓が有り、時雄は同志社を出て山本覚馬の娘と結婚、その縁で新島襄の父のお墓が有りました。現在は同志社の墓地に移っています。

11148vol142_2でも南禅寺からは、耶蘇(当時はそう呼ばれていました)式の葬儀や、お墓を建てないならばと言われましたが、それは無理な話ですので急遽若王子の共同墓地の埋葬になりました。
棺は代わるがわる教え子によって担がれ山頂の墓地に向かいました。

小崎弘道の「殉教者の死」と題する追悼説教は「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一にしてあらん、もし死なば、多くの果を結ぶべし」でした。

あこも3~4年前ですが、若王子の墓地にお参りに行きましたが、墓地入り口に杖が何本か置かれていてその意味が最初解りませんでしたが、何分か上ってみてあ~杖を借りてくればよかったと思うような獣道に近かったのを憶えています。最近は如何でしょうか?

写真はその登り口と、お墓です。ご冥福をお祈りします。
何故かと思うお話が一つあります。「大磯の今昔」鈴木昇著の(四)に妻八重は明治23年6月に神明前九〇六番地外の土地を購入したと有ります。
襄が亡くなった後に何故購入したのでしょうか?
機会が有りましたら調べてご報告します。

2018年11月13日 (火)

【大磯今昔・新島襄7】(Vol.141)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【18.03.19】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。(敬称略)
新島襄も7回目を迎えました。前回で八重との結婚のお話をしましたので、今回は八重について少し語ります。

11137vol1411
2013年に大河ドラマ「八重の桜」の放映があってから奥様の八重が有名になりました。 
では、八重はどんな人?大磯との関わりは、どうだったのでしょう?

11137vol1412大磯との関わりは、残念なことに襄が危篤となって、京都から駆けつけ静養している百足屋旅館に看病の為に到着後、3日で亡くなられてしまいました。
八重自身は、もっと前から看病に大磯に来たかったのですが、襄から自分の事よりも、自分の母の面倒を見てほしいと頼まれて、中々大磯に来ることが出来ませんでした。
やっとの知らせが、「襄危篤」でした。

大磯での滞在は、この3~4日でしたが多くの心を残されました。
では、八重はどんな人でしょう。
世間には、「男勝り」「豪放磊落」「異端児」「正体不明の女子」「元祖ハンサム・ウーマン」凄い言葉が続きますが、彼女を称賛した言葉です。

八重は、弘化2年(1845)11月3日(12月1日説も有り)、山本権八・佐久の三女として会津藩砲術指南の家に生まれ、兄・覚馬は後に、結婚する川崎尚之助、新島襄との関係に大きく影響を与えます。

幼い頃から男勝りの気性で、13歳の頃には四斗俵(約60㎏)を肩の上まで4回は上げ下げできたといいます。
慶應4・明治元(1868)年1月に始まった戊辰戦争で朝敵となった会津藩は、同年8月ついに会津鶴ヶ城城下まで官軍に攻め込まれ、1ヶ月に及ぶ籠城戦の後に敗れてしまいます。この時に、八重は断髪・男装し、新式のスペンサー銃と刀をとって果敢に戦ったことから、「会津のジャンヌ・ダルク」と呼ばれました。

落城の際に、白壁に涙ながらに刻んだ和歌は有名です。
「明日の夜は 何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」
戊辰戦争から3年後、京に上洛し襄と出会い「同志社のハンサム・ウーマン」として過ごします。
今回はここまでです。

写真は八重の写真と、この後、襄・八重と深い関わりを持ちます、「徳富蘇峰」の記念館を先週二宮に訪ねてきた時の写真です。

2018年11月12日 (月)

やっと休みが取れそう!

0日・11日の週末で大磯高麗山芸術祭も終了。
土曜日には、宿場まつりの後片付けも完了。そして大磯町図書館まつりも終了しました。

そして、今月の22日に開催する明治150年「明治記念大磯邸園」と旧安田善次郎邸まち歩きの申込締切日です。
お陰様で定員60人のところに倍以上の申込があり、抽選になってしまいました。
その準備と今週末の大磯市の開催と重なって相変わらずの忙しさです。

国が主催している、明治記念大磯邸園の12月24日までの期間限定一般公開も、建物の中を見学できるガイドツアーは、先週の金曜日で最終日までのツアーが一杯になり邸園のみの見学だけになるとの連絡がありました。
こうした内容に対する苦情のツケが観光協会にもたらされるんですよね!

そんな中でも今週はちょっとだけ息抜きをさせてもらいます。
9月・10月とほとんど休みを取れなかったので明日から3日間だけ休みをもらいます。

2018年11月11日 (日)

大磯町図書館まつり

第16回目になる「大磯町図書館まつり」に「いそべぇ・あおみ」を図書館業務のお手伝いをするために行ってきました。

カウンターに入り図書の貸し出し、返却業務を図書館職員と一緒にさせてもらいました。
子ども達も「いそべぇ・あおみ」に本を貸してもらうために、読みたい本を探しカウンターに持参してくれました。

寄贈された本、除籍本自由に持ち帰り出来る古本市には、朝から列が出来るほどの人気です。
ネットを中心にしたSNSの普及により文字離れが言われてから久しい時が経過しますが、それでも書籍で読まなければと思う読み物も沢山あります。

こうした行事に参加して子ども達にも、本に親しみを持ってもらい、貸出が少しでも増えれば嬉しいですね!

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2018年11月10日 (土)

【大磯今昔・新島襄6】(Vol.140)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
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 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【18.03.12】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
もう少し、新島襄を続けます。(敬称略)

今回の新島襄は海外にいらした方とか、お住まいの方からのメッセージを、頂きましてありがとうございます、訂正等も含めまして、身の引き締まる思いです。
そろそろ襄に日本に帰国して頂きましょう。

明治8年(1875)11月横浜に帰着します。
前年にアメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立をする旨を訴え、5,000ドルの寄付の規約を得ます。
帰国後、すぐに故郷の上州安中に向かい、最初のキリスト教の講演をします。
その集会に参加した30人が洗礼を受け後に安中教会(現・日本基督教団安中教会)を設立します。

同志社設立(同志社英学校)へと進んでいく中、京都府知事・植村正直、府顧問・山本覚馬(後に妻になる八重の兄)の賛同を得て旧薩摩藩屋敷5,800坪を譲り受け官許同志社英学校を開校し、その翌年明治9年1月3日、山本覚馬の妹・八重と結婚します。

もう何年になりますか、大河ドラマ「八重の桜」が放映され、襄と八重の出会いは有名ですが、ご覧にならなかった方に、お話しますが襄はアメリカでの暮らしから理想とする女性は「男性と対等に生きられる自立した女性」との結婚を望んでいました。

11106vol140山本覚馬の家を訪ねた時、井戸の上に渡した板の上で裁縫をする八重の姿を見て(夏でしたので、井戸の上は涼しいから)常識にこだわらない姿勢が気に入って結婚を決めたと言われています。
こんな行動をとる八重には、辛い悲しい戊辰戦争での事が有りました。
死ぬこと以外は、一切の頓着を考えないようになったようです、戦の決着がつくまで、お城の城内には亡くなった人たちが放置され、そんな中で何日も男と同じ戦いに参戦してきた八重の心はとても辛かったと思います。

その時男性には死の命令が下されましたが、八重は女という理由から死ぬことを許されませんでした。
その事がきっかけで、死以外は心の赴くままに行動しようと決めたと、何かの本で語っていました。

大磯町でも、「新島八重」の講演が有った時にも、語られていてあこちゃんも涙したのを覚えています。
でも、この生き方に当然賛否両論、でもいつも味方して下さったのが、夫である襄でした。今回はここまでです。
写真は、京都でのお2人のお住まいです。

2018年11月 9日 (金)

大磯町長選挙公開討論会

公益社団法人平塚青年会議所主催による大磯町長選挙公開討論会が大磯プリンスホテルで行われました。
300名の会場にほぼ満席に近い盛況で町長選挙への関心の高さを感じました。

大磯町では公開討論会は初めてだけに関心があったのかも知れません。
そうした意味では平塚青年会議所のメンバーに感謝したいと思います。

町長選挙に立候補を予定している、中﨑久雄氏、玉虫志保実氏、上田太郎氏、飯田修司氏の4人から町長選挙に臨む抱負等を述べるところからハプニング?

3人目の上田太郎氏は出馬を決めた理由を述べたと思ったら、この公開討論会の席上でいきなり出馬辞退宣言?????
まるで公開討論会を自分の思いを伝えるだけの宣伝の場に利用したような姿勢に会場全体があきれかえり、そして怒りに。

今夜の公開討論会は「地域活性化とまちづくり」「青少年の育成・教育」「安心・安全なまちづくり」の3つの大きなテーマを中心に3人の立候補候補者から意見が述べられました。

現職に臨む2人の候補者からもう少し、問題・課題だけを述べるだけではなく、自らが組長になった時のビジョンが欲しかったですね。

全ての選挙には私も被選挙権があります。
予定している候補者の公約と大きな違い、方向性があっているならばその候補者を応援します。
それが出来なければ自らの被選挙権を行使すれば良いのですから。
従って候補者の批判は慎みたいと思います。
任期満了に伴う大磯町長選は13日告示、18日投開票で実施されます。

1109

2018年11月 8日 (木)

明治記念大磯邸園と旧安田善次郎邸を訪ねる

かっては「明治政界の奥座敷」と言われていた大磯。
明治時代から避暑・避寒地として、初代内閣総理大臣伊藤博文をはじめ、明治政界の要人たちが多くの別荘等を築

きました。
今も残されている旧伊藤博文邸「滄浪閣」や旧大隈重信邸・旧陸奥宗光邸などの歴史的な建物群や緑地を一体的に

保存・活用するため「明治150年」関連施策として「明治記念大磯邸園」として整備が進められています。
その整備計画に先立ち10月23日から整備部分の一部が一般公開されています。

今までベールに包まれていた「明治記念大磯邸園」とこれも明治時代の一財閥を築き上げた「旧安田善次郎邸」を

(公社)大磯町観光協会・神奈川県と共催でまち歩きを実施しました。
普段は見ることの出来ない施設に定員を2倍ほど上回る申込に関心の高いことを感じます。

今回は初めてのディナーでの実施でしたので午後からのスタートです。
食事を大磯駅前の「大磯迎賓舘」で「明治150年記念コース」を特別に作っていただき、大磯が発祥とされる「サフ

ラン」も食材に加えてもらいました。

そして、大磯町でこのサフランを栽培している外川さんのご協力もいただき、サフランをお土産に差し上げました。

1108写真は「旧安田善次郎邸」と「サフラン」です。

22日に同様のまち歩きを実施しますが既に定員をオーバーしていますので抽選になりますが、締切が12日ですの

でホームページからの申込はまだ、間に合います。
詳細を下記URLを参照してください。
  http://www.oiso-kankou.or.jp/entry.html?id=243562
22日の食事は「汐彩のお宿大内館」になりますので、今日の内容とは異なります。

2018年11月 7日 (水)

大磯高麗山芸術祭

今週末に大磯高麗にある高来神社で「アートで伝説を照らす2日間」をテーマに大磯高麗山芸術祭が開催されます。
今年のメイン事業も昨年に引き続き、中にろうそくを入れた竹のオブジェで参道や境内を埋め尽くす「竹あかり」と空間クリエーターの現代美術作家の石塚沙矢香さんがプロデュースする「キラキラアート」

「竹あかり」は百本を超える竹を、大磯の竹林から切り出し、1万箇所以上の細かな穴で模様を彫り「高来神社の竹あかり」として小学生からご年配の方々が世代を超えて作品を作り上げました。

もう一つの「キラキラアート」は、応神天皇のころ漁師が海から引き上げた光るタコが黄金の千手観音に姿を変え、持ち帰って高麗寺(現在の高来神社)に奉納したという「光るたこの伝説」をテーマに不要になった船に神様が宿るとされている鏡を素材にしたオブジェで演出します。

詳細は同実行委員会の公式ホームページを参照ください。
  https://ko2017.jimdo.com/

1107【プログラムの概要】
10日(土)17時より20時30分
・高来神社の竹あかり
・アート作品ライトアップ「ゆくえ」「光を宿す」
 現代美術作家:石塚沙矢香
・音楽と舞のパフォーマンス(トロリテケロリ)
・高麗食堂
・高来神社総代屋
・宮酒場(美酒いろいろ)
・Mezcal Bar ”La Cuenta(メキシコのお酒)
 
11日(日)11時より20時30分
・手しごと市(境内マルシェ)
・結琴ライブ
・フルート体験ワークショップ
・高麗山ヒストリートレッキング
・高来神社の竹あかり
・アート作品ライトアップ「ゆくえ」「光を宿す」
 現代美術作家:石塚沙矢香
・音楽と舞のパフォーマンス(トロリテケロリ)
・高麗食堂
・高来神社総代屋
・Mezcal Bar ”La Cuenta(メキシコのお酒)
 
会場:大磯高来神社(高麗2丁目9?47)
アクセス1:大磯駅から徒歩20分
アクセス2:神奈中バス「花水」「化粧坂」バス停より徒歩5分
駐車場のご用意はありません。

2018年11月 6日 (火)

中学一年生のフィールドワーク

今月は2日に国府中学校一年生が6人。
そして今日は大磯中学校一年生のフィールドワークで32人の生徒が6グループに分かれて駅前の観光案内所にやってきました。

それぞれのグループと個人が個別テーマを決めてやってくるのですからバラエティに富んだ質問攻めにあたふたとしました。

海水浴場の発祥のことから始まって、左義長、国府祭、高来神社の春・夏の例大祭(御船祭)、植木市、大磯の特産物、年間の大磯町への観光入込み観光客数などについて、「いつから?、どういう理由かで始まったの?」「お金はどのくらいかかるの?」と言った予算のこと。「誰がやっているの?」運営組織の問題を、限られた2時間足らずの時間内で、子どもたちに分かりやすく話すのは大変です。

それでも学校で事前にテーマを話し合い、実際にそのテーマに即した場所を訪れ、直接ヒアリングの対象として大磯町観光協会を選んでくれたのでしょうから一生懸命、丁寧に説明をしました。
しかし、どこまで理解してくれたのか、ちょっとだけ不安です。

2018年11月 5日 (月)

【大磯今昔・新島襄5】(Vol.139)

○大磯町観光協会副会長、通称「あこちゃん」のシリーズです。
 最初から通してお読みになる方は、左のカテゴリー「大磯今昔」をお読み下さい!
  まだまだ掲載を予定しているシリーズがたくさんあります。
 なるべく読みやすいように一人、一日で完結するようにアップしていきます。

【18.03.05】掲載文
「大磯今昔」のあこちゃんです。
もう少し、新島襄にお付き合いください。(敬称略)

脱国者であった彼が、その禁を許されたのは岩倉使節団の通訳として米国・ヨーロッパに随行したことの功が評価されたからですが、この事には実は大きな意味が有ります。

「大磯今昔」を語りだして、後2ヶ月で3年になりますが、約50人近い方達の業績等を当時の思い、そして今を生きる私達への影響、そんなことを調べていますと国が行うイベントの、「明治150年」~明治維新から今年の10月23日で150年です。

この時代をスタートさせることで当然当時、整備しなければいけない事の一つに「不平等条約の締結」が有りました。
この命を受けたのが岩倉使節団でした。ところが、当然交渉はスムーズに行われる訳が有りません。いろいろな問題が蓄積していました。

今までもそうでしたが、今回の主役は、新島襄ですが語っていくうちに、色々な方達との接点が、浮かび上がってきます。横道に、それるように見えますが、大事なことですので続けさせていただきます。

その理由の一つに、キリシタン弾圧が有りました。
この事は、ヨーロッパには広く知らされることでした。
1614年に、全国禁教令が発布され約250年禁教が続いていました。
この事が、不平等条約の締結を阻んだいた理由の一つでした。
明治4年に、岩倉具視はヨーロッパでのことを、伊藤博文に電信を送りこの事を解禁しないと前に進めないと~。
そして、明治6年完全禁教が解かれました。

11055vol139今回の主役の襄はどうしたかというと、岩倉使節団に会ったのはアンドーヴァー神学校に在学中の明治5年(1872)3月の事でした。その前年に森有礼公使の斡旋により日本政府から留学免許状を受けていましたので、もはや脱国者では有りませんでした。しかし、政府からの援助を断り、アメリカでの勉強を続けていました。副使の木戸孝允と親交を結んでいた襄は、使節団の要請に応じて、田中不二麿文部理事官の通訳兼案内者として、ニューイングランドをはじめ、イギリス・フランス・ドイツ・その他の諸国の教育事情を視察して、ベルリンで田中の報告書「理事行程」の草稿を終え、田中に手渡したのは明治6年1月でした。後に、この報告書が日本の教育制度確立の上で、有力な拠り所となっていきます。この年の9月に、神学校に復学し、明治7年9月24日ボストン・マウント・ヴァ―ノン協会で按手礼を受けました。刻々と日本への帰国に向けて動き出します。今回はここまで。

前回で、譲がなぜこんなにも米国の皆様に愛されたのかお話しますとお伝えしていましたが、本当に勤勉で、実直で小さな努力の積み重ねの方でした。そのことに疑問を持たず、素直に突き進んだ方でした。

今回の写真は、同志社資料から転載をお願いしました。
アーモスト大学ジョンソン・チャペルに掲げられている新島襄の肖像画です。
チャペル内の正面に同校のOBクーリッジ大統領の肖像画と対のかたちで掲げられいる新島の肖像画で卒業30年を記念してクラスメイトが作成したものです。

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西湘を拠点にして色々なプロジェクトを立ち上げて奮闘しています。そして私も遊ばされています。

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